武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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【武道空手 身体操作】 理想を具体的に見据えて

「いやぅうわぁああ〜どぅわうわあ〜いいい〜やぁだやあだ」


昨日の夜、帰りの電車でちっちゃい子の叫ぶ声が聞こえてきました。
最後の「やあだやあだ」だけかろうじて聞き取れました(笑)。

夜9時の千葉行きの総武線は混むでしょう〜。
ご両親も冷や汗ものだったでしょうけど、お子ちゃまもさぞ「やあだ」でしたでしょう。

姿は見えませんでしたが、おそらく1歳過ぎて2歳位までの間の年齢かと察します。

あの頃の子供って、本当に手におえないんですけど、一番かわいい頃かもしれません。
やることなすこと無邪気だし、ある程度コミニュケーションとれてくるし。

うちの娘はもう小学校高学年で、かなり生意気な発言が目立ってまいりましたが、それでも寝顔は赤ちゃんの頃の面影を残しており(やや太めなのでなおさら)、当時の思い出がよみがえります。



年が明けてからも、淡々と治療院の業務と空手の稽古、ダンサーのみんなとの交流、体操教室など行っているわけですが、なんとなく時間がとれずブログもあまり更新できておりません。

仕事も武術も、それぞれに進展があって、それに追い付いていくのに少々手間取っているのかもしれません。


まあ、すべて良い方向にいっているので、大変ですが充実感があります。
また、ご協力頂いている皆様に感謝感謝です。

感謝を返すとしたら、少しでもよい治療をし、武術から発見した原理を健康体操に活かし、一般の方にもお役に立てる様、日々思案を巡らす日々であります。

もちろん、武術は武術でも貢献できるところもある訳で、現在は月一の木田道場や、琉球古武術の前半で行っている空手の時間で、よりよく動ける為の手助けとなる様、指導などさせて頂いてます。

人様に教えるという事は、当然自分にもよい影響があります。


何の道でもそうかもしれませんが、教えることで自分のいい加減だった部分、弱い部分を痛感させられるものです。

そして、それらの改善策を考える時、自分がまた進歩できるのですからね、そういう場を与えてもらえること、一緒に稽古してもらえる仲間、先輩、後輩、師匠に感謝です。

武術をやるにおいて最もありがたいことは、“練習相手がいる”ということです。

一人では絶対に上達できませんからね。
あ、これもまた何の道でも同じでしょうね。



琉球古武術道場での空手の稽古では、よく若い人を相手に組手をします。

仕事に追われ、稽古時間も少ない中で工夫してきたおっさんの力を実験するにも、県や地区の大会で3位内に入る様な高校生、大学生がいるので助かります。

武術的な原理が身に付いてくると、徐々に楽に動ける様になるので、そんな中でも顏を傷つける様なこともなく、無事に済んでおります。

こちらの道場ではいわゆる“寸止めルール”ではありますが、実際は道場内でも歯がかけてしまったり、口の中を縫うほど切ってしまったりすることがあります。

寸止めなどと言っても、決して気は抜けません。
寸止めルールでも大会などの様子は、想像以上の激しさがあるものです。



木田道場ではいろんな体の操作のコツをつかむ動作を紹介したりする他、ヘッドギアとグローブ、もしくは拳サポーターを付け、直接打撃制に近い組手をします。

鼻の前にバーが入ったヘッドギアなので、口や鼻、目などに直接当たらないので、比較的安心して組手が試せます。

安心しちゃいけないんですけどね、ほんとは。



寸止めは飛び込むスピードがとても速く、カウンターや第一撃目など、単発の攻撃で決着がつく場合がよく見られます。

キックボクシングの様な、直接打撃制のルールであると、寸止めルールよりも近い間合いでの攻防が多くなります。

ノックアウトを狙う為、打ちち抜く様な打撃や連打が特徴的です。

この2つのスタイルだけ見てもかなり違いがあり、日頃からどちらも経験できるのは貴重なことです。

武術において、一番注意しなければならないのは、“慣れないこと”だと思うんですね。

たとえば、板の間で投げられても受け身が取れる。

でも、石畳の上ではそうそうできるものではありません。投げられずに、上手に転がされる様にするしかありません。



現在は総合格闘技の登場で、ずいぶんと格闘技の技術が絞られてきた様に思いますが、状況が変われば有効な技術もまた変わる訳で、自分がどういう状況で通用する武術を目指すか、というところがはっきりしていた方がいいでしょうね。

それでも、目的は人それぞれですし、仲間といい汗かければよしということもあるでしょう。

私の場合は欲張りなので、いい汗かいて、そして状況設定もこだわった技術を稽古したく思っています。



このことに関して、実戦中国武術家の蘇東成先生が、

「打つ、蹴る、投げる、武器も含めてやらないと武術じゃないんですよ。」

と言われています。


私も本当にそう思います。


私の会は「武道空手」という名称を用いていますが、他にも「武道空手」と称する組織、団体が多数あります。

そこにはいろんな流儀、スタイルがあり、私が理想としたい蘇東成先生の言われる様なスタイルばかりではありません。



それがいいとか悪いとかということではなく、

“何をもって、武道空手と定義するのか?”

という事を考えざるを得ません。



これはそれぞれがそれぞれの答えをもっていればいいわけです。
誰かが絶対的な定義を決められる様なものではありません。

武術・武道も文化だからです。

生きている人間が作り出してきた、また作り直し変化させてきた“生活の知恵”だからです。

その様な無形の文化なのです。


そもそも”武道”というものは、柔道や剣道などが興った明治維新以降に広まってきたものではないでしょうか?




それ以前は本当に戦争のため、自衛のために用いられた、蘇東成先生が言われたとおりの素手の技術から武器術までを含めたもの、また団体戦の技術も含まれたものだったはずです。

ですから私も武道という以前に、まず”武術”という考え方を大事にしたいと思っています。

なぜなら、武術の目的は「勝つこと」ではなく、「負けないこと」だと思うからです。

相手も自分も、お互いに危険な武器を持っていた場合、まずはやられないことを考えなければいけません。

勝っても相打ちで、自分も死んでしまっては意味がありません。
ましてや、第三者を防衛することなどもできません。

まあ、生きている間にそんな目にあいたくはありませんが、どうせ武術を学ぶのなら、そういったできる限りの可能性を求められるものを学びたいと思うのです。





また、“武道空手”というものだけでなく、“空手”というものそのものについても考えていることがあります。

空手ほど異なるスタイルを持つジャンルの武道もあまりないのではないでしょうか。

防具の有無、顔面攻撃の有無、武器の弊習の有無、寝技の有無、寸止め、フルコンタクト、掌底なら素手の顔面攻撃OK、などなど、挙げたらキリがありません。

これはおそらく技術の伝承にズレが生じたからではと考えてしまいます。




沖縄では昔、「唐手」と呼ばれていたらしく(現在もそう名乗る流派もあるかもしれません)、唐の国、すなわち中国から伝わった技術を主として、沖縄土着の武術と融合したというものでした。

沖縄ではまだまだ純粋なスタイルで綿々と伝承されている様ですが、本土に伝わった時から様々に改良、改変されています。

もはやそれは「唐手」ではなく、「空手」となったわけです。


きちんと元の形で伝わらなかったこともあるかもしれませんが、本土には本土の武術があり、そうした日本刀を用いた剣術の動きなどが取り入れられていった理由は、そうした方が本土の人間にとって使い勝手がよかったからでしょう。


つまり、本土にわたった時点で空手は改良されることが必須であったと思うのです。

他の武術の理論をもってしなければ、解読できない、実用化できないと思った人もいたのではないかと考えています。

現代ではグローブを使う流派はグローブを使う様に、投げ技を排した流派は打撃のみの試合に活かせる動きに、それぞれ進化していったのだと思います。

伝統的な空手術を研究する多くの方たちも、その型や基本の動作の意味やそれにかくされた原理なども数多くの解釈があります。



なぜ、そんなにたくさんの解釈があるのでしょう。



沖縄以外の土地に渡った瞬間から、空手の原理を解く方程式を失ってしまったのかもしれません。

なかなか通常の基本動作の稽古だけでは、武術的な精妙な動作に昇華させることができません。

それに比べ、中国武術などはとても詳細な、技の原理を体感させる様な動作がたくさんあります。



私が以前から注目しているのは、直線的攻撃が得意と言われる八極拳を学ぶ前に、腕や全身の遠心力などを理解する為に学ぶ「劈掛掌」と、日本の古流柔術、柳生心眼流の「素振り」、それに太極拳の準備体操の様なものです。


劈掛掌、柳生心眼流の素振り、太極拳の準備体操的動作、どれも足捌きや全身の動きを伴いながら、大きく両腕を振り回す様な動きがたくさんあります。


これらを参考にしながら、空手の型の中に似たような動作を探し、それを繰り返す作業をしています。


からだの軸や、腕・脚の軸などの存在、またその動作の中での使い方がしっくりきた時、そこではじめて自分が目指す武道空手の技術を行います。

空手という難題を解く方程式を他の武術に求めなくてはならないのは、私が言うより以前に行っている先達もたくさんおります。

あらためて空手という武術のふところの広さを考えてしまいます。

汎用性に優れているからこそ、ある程度自分の目指す技術の理想像が具体的にしぼられていないと、まとまりがなく、結局何も得られずに終わってしまったという事にもなりかねません。

しっかりと自分の理想像、目指す山頂を見据えていかなければなりませんね。

そういう意味ではかつて指導して頂いた師、先輩方には感謝以外ありません。

一生かけて目指せるゴールを見せてもらったのですから。
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原発のこと・父のこと

さきほど、原発事故に関するドイツの報道の動画をこちらで紹介させて頂きましたが、私個人としてはそうした情報の「拡散」だとか、扇動的ともとられることは好きではないのですが、ご紹介した動画は私なりに思うところがあり、事の賛否やその真偽も含めて、こちらのブログにご縁のある方々にもご覧になって頂きたいと感じたのです。



情報とは難しいものです。


私が発信している武道空手や東洋医学についての情報も、もしかしたらどこかの誰かを迷わせていることもあると思います。


その情報のメッセージ性が強ければ強いほど、その影響も大きいでしょう。


しかし、私自身、情報と言うものについて、もう一度考えなければならないと感じたきっかけになったのがこの原発の動画でした。




私はまだまだ自分に自信が持てない為か、たくさんの情報を与えられることを恐れています。


たくさんの情報によって、自分が混乱してしまうのを恐れている訳です。


しかし、老いも若きも、また職種などにも関係なく、現代の情報化による影響は避けがたいものとなっており、たくさんの情報を見たとしても、そこで自分がどう判断し、どう考えるかと言う作業をしなくてはいけないのだと思ったのです。


しっかり生きていくためには、その様なトレーニングが必要なのでしょう。


私自身が避けていた様な気もして、自分に対する戒めとしてしっかり受け止めていきたいと思います。




すべての事柄について、自分で判断し、自分で決断していく。


これは今も昔も変わらないことではありますが、これを可能とするにはどうすればよいのか・・・。





原発の動画を見て、沈んだ気持ちを抱えながら父の見舞いに行きました。

最近、自発的によく話せる様になってきたのですが、口数が多くなるにつれ、


「やはり、親父は少し呆けてしまったようだ。」


との思いが確信に変わってきました。



親父が自分に対して敬語で話している。

話し方も信じられないくらいにおだやかだ。


私のやる事なす事、文句を言うのが当たり前で、私のやる事に快く賛成したこともなく。


物心ついた頃から、殴られ、投げられ、私の気持ちの甘さを決して許さず。


歳をとってからも、いつもちょっと煙たい存在であった父の変わりように、また気持ちが沈んでしまいました。


先ほどの原発の動画でも、ドイツの人は今でも福島に人が住んでいるのが信じられないほどの危機感を持っていると知りました。




父の生家があり、私も幼少時から慣れ親しんだ福島県の現状を思うと、またつらくなってしまいます。



父方の親戚はまだ、いわき市の避難区域でないところで、今までの様に生活しています。





毎年、楽しみにしていた家族で行っていた墓参りや、ハワイアンズや、小名浜港の食堂やお土産屋さんやら、娘を連れていくことはしない方がいいのか。




あと20年?



あと30年?




父の見舞いの帰り道、車を運転しながら沈んだ気持ちでおりましたが、福島で、東北で、もっと大変な闘いをしている人たちがいる事を思うと、自分も自分にできる事をしっかりやっていこうと思いました。



情報が氾濫し、日本全体にも危機的な状況で、家族の心配などもあり、心がなかなか落ち着かない気もしますが、いつの時代でも一番大事なのは、自分にできる事をよく知り、それを見極めて、落ち着いてじっくりと、確実にこなしていく事が社会に対する誠意であると考えました。



楽しく生きていければそれでいいのですが、歳をとるほどに感じるのが、周りの人が楽しく過ごせなければ、自分も楽しくはなれないという事です。


当たり前の事ですが、自分のことと共に、家族や友人、地域社会のことの為にも貢献しなければ、決して自分も楽しくは過ごせないと思います。



自分ひとりでも楽しめることもありますが、それは長続きしません。



誰かが喜んでくれるから、自分もずっと喜んでいられるのだと思います。



こうした志を持っていないと、流され、振り回され、自分がふらふらと落ち着かずに生きていくことになってしまいそうです。



今の世の中、いろんなことを知ることができて、いろんなことができそうな気もしますが、実際には個人の活動範囲は当然限界があります。


しかし、ほんの小さな範囲でも、自分だからこそできる小さな貢献があるはずです。


それらを忘れずに、地に足をつけてしっかりいこうと考えさせられた日になりました。

【武道空手 身体操作】脳疲労と基本動作

身体を開発するとは言え、部分ごとに細かい開発法をしていたら、きっと脳も疲労するし全体の動作としてもまとまりにくいだろう。


動作がまとまらないと、覚えも悪い。


身体のあらゆる部位に動作の秘訣はあるが、先人は上記の様にならない為に、全身で動く、一つのまとまった動作をその流儀の"基本"として築いていったのだろう。


教える順番としては、まずは「全身動作」をおおよそ真似できる様にさせて、それから細かい部分の指導となるのが基本的だろう。


自分は稽古が波に乗ってくると、ひどい疲れがやってくる事があるが、それは何事も細分化し過ぎる癖からくる、脳疲労によるところが多い気がする。


部位ごとの細かい原理を考えるのも良いが、人に伝えるにも、相手に脳疲労を起こさせない様な伝え方を考えていかねばならない。


まずは自分からである。

己を映す

今日は地元の友人たちと稽古会を行った。


全体の内容はまあまあだったが、自分の動きも良い感じでできたつもりだった。
しかし、以前から気を付けていた悪い癖がいまだ残っていたのに愕然とした。

と言うのも、友人の中の一人がカメラやビデオなどでずっと撮影してくれており、帰宅してそのビデオを見ると、いつも気になる自分の欠点がそのまんまであったと言う訳だ。

ただ一つ違ったのは、その欠点を気付くだけでなく、具体的に身体のどこをどう動かせばよいかすぐに理解し、その場で修正できると言うことだ。

それにはやはり時間が経過して、その間もずっと研究をしてきた成果であるとも思う。


大切なのは身体感覚が高まったとしても、すぐに己のパフォーマンスが良くなっているとは限らない事である。

当たり前だが、第三者の目で客観的に見て、初めて分かる事である。

現代の様に便利なビデオなどがあるその恩恵であると痛感する。



自分を客観的に映すことの必要性と言えば、自分の場合、治療、治療院そのものもそうである。

それらはただ一人の意見だけでは心もとないが、少なくともセンスのある数人で事足りるのではないかと思っている。

先週、顧問の税理士さんと治療院にて打ち合わせをしていた時、運営の話だけでなく、治療院の内装や物の配置、治療コースの説明文、看板やチラシ、ホームページの内容などについても細かい意見を頂いた。


それでやっと気付けた欠点は、自分でもなぜかしっくりきていない感じがしていた部分ばかりだ。

漠然としたものを的確に伝えるそのセンスとスキル。
まるで武道の動きを映したビデオカメラのよう。

ビデオカメラに匹敵する人物により、仕事も武道も客観的な「第三者の眼」となって、その現在の良いところも悪いところも、全て正しく自分を映して欲しい。

その様な知人友人を持っていたいものである。

己を正しく映す事のできる者が、“成果”を得られるものだと思う。

【身体操作 武道空手】稽古会からの気付き

開業準備の為、パソコンに向かっていろいろとやる事が多い。
あまり得意でないせいか、大した時間もやってないのに、やたら眠くなる。

大量のエネルギーが消耗される様だ。

そんな作業を一段落させ、武術の書を読み、また気分転換にゆ〜っくりと空手の移動稽古(歩みながら突きや蹴り動作をする)をやってみる。

主に武術のイメージ鍛練。

激しい動きでないからかもしれないが、パソコン作業の疲れが取れて、脳に酸素が行き、手足も力が満ちてきて、すぐに反応できそうな張りが出てくる。

これが気が巡ったと言う状態かと思う。

やはりパソコンと言う無機質で実体の無いものに対して、エネルギーを注ぐ行為は、なんか

「のれんに手押し」

的な感覚で、やりがいが無いと言うか、果てしない終わりの無い労働に思えてしまうのは、自分の脳みそが古いからか、意固地な性格の為か。

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前回の稽古会を終えて、かなり得るものがあった。

次回はもっと身体の部位ごとの開発の為の基本エクササイズをしっかりやりたいと思った。

それと武道空手らしい基本的な動作も。

今日、自分でやってみて確認した空手の移動基本の動作。

ゆったりと正確にすり足をする事で、「居着かぬ足捌き」の一端を感じられる。
床の一直線上を、鼻先、拳、膝、肘、肩などがゆっくりと通過する。

様々な武道、また身体操作術で、よく「支点の無い動き」と言われるものがある。

これはボールペンの端を持ち、ゆらゆら揺らすとボールペンが真ん中から曲がって見える原理と一緒だと思う。

支点が無くなる訳ではない。
支点は厳として存在する。

ただし、そのあり方が通常と少し違うだけである。

人体の中の関節など、複数の支点が同時に、一つの目標の為に協調して動く為、全体としてはあり得ない直線的な動きや、まるく非常に柔らかい動きとなる。


「脱力統一体」と言うこともよく聞く。
脱力すれば、遠心力や自然落下、それに伴う加速度を充分に活かすことができる。

しかし、それだけでは「技」にならない。

相手の攻撃を避けながら、自分の攻撃を有効に届かせる為には、最短距離を進む以外にも、死角を通るとか、まっすぐ一直線であるとか、軌道がぶれないとか、様々な条件を動きの操作で満たさなければならない。

その為の操作を学ぶのが、型や基本動作である。

型や基本の中で、「脱力」を求めるのも良いが、腕だけ、肩だけ、股関節だけ・・・を脱力させようとしても、かなり難しいものである。

であるから、脱力して腕や脚などその部位の正しい運動軸や支点を知る為の鍛練法が必要であると思うのだ。

脱力や運動軸を修得させるのは、

「体を作る」

と言う事。

相手の攻撃を避け、自分の攻撃を成功させるには、

「技を学ぶ」

と言う事が必要だ。

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様々な武術の流派にある「体を作る」ためのエクササイズこそが秘伝になっていたりする。

そして「技」。

どちらへも偏ってはいけないが、年令や時期によって、「マイブーム」なるものが生じるのも人間。


一時期偏ることがあったとしても、帰る場所を忘れてはいけない。

基本と応用。またその中間。

自分自身もっと理解を深めたいと思う。

その為には様々な人たちとの繋がりが必要なのだ。

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