武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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伸び伸びと・自己表現

今日、子供の幼稚園の作品展に行って色々と考えさせられた。

作品は、虫や親の似顔絵、家と庭の紙工作のジオラマ、焼いた皿、砂絵、紙工作の動物、折り紙で作成した絵などなど。

子供の内は精神的にあまり制約も無く、また自制心が成人より弱いと言う反面、感性が強いので、伸び伸びとして全てがダイナミックと言う表現がよく似合う。
また、自分が子供の頃は忘れてしまったのか、子供がここまでの製作能力があるのかと感心する出来映えの物が多かった。

社会人となれば言うまでも無い事だが、制約される事も多く、周囲に対しどうやって合わせていくか、と言う事に多くの労力を割き、純粋な自己を表現する場が非常に少ない。

昼間は立派な企業人として勤務し、夜は秘密の場所で「女装」を楽しむ男性がいると言うのも、よく分かる。

人は皆、どこかで自己表現したがっているに違いない。
「自己表現」。
とても気持ちがいい響きだ。

自分も治療と言う事で生計を立てているが、治療そのものとは直結しない事も多々やらなければならない。

昔はそれぞれの専門職が成り立つ様な経済の仕組みであったろうが、現代においては全ての分野が「コンビニ化」していると感じる。
それぞれが生き残りをかけて、他の競合相手より多くサービスしよう、変化のあるサービスをしよう、もっと宣伝をしよう、と言う具合に、総合的にエスカレートしている感がある。

専門職を通じて自己表現できる場が、今よりもっと増える為には並々ならぬ努力が必要であろう。

今日見た子供の作品は、トンボの足の数が多すぎたり、チョウの羽が画用紙から書ききれない程大き過ぎたり、また羽の模様が繊細に描かれ、自分でもここまでは描けないのではと思わせる様なものが多かった。

つまようじを使ったハリネズミの工作も気に入ってしまった。
牛乳パックのワニの背中のギザギザも妙にリアルであった。
子供の鮮烈な印象が、ストレートに表現されている。
父親の似顔絵の周りにビールジョッキや焼き鳥、魚など、好みの物を描いてあげている絵も想いが伝わる。

武道の技術でも自分勝手は良くないが、自分がしたいと思う動きをする事は大事である。
正しく学ぼうとするあまり、これはやってはいけない、この動きは武道的ではない、とか頭から自分の感覚から起こったものを否定してしまう事がある。
それによって、技が伸びなかったと言う事などが、後々になって分かる事がある。

最近も実際にあった事で、自分のそうした先入観が、自分の成長を妨げるとつくづく思う。

基本はあくまで基本であるし、伝統文化の継承は初心においては師の言う事は絶対と言う身としては、この様な事は言っては矛盾になるが、師が「武道的には良くない」と言われた事をあえて行い、それによって師の言う事を体が理解できた、と言う事が多々あるのだ。

これは「言われた事だけやっていてはダメだ」と言う当然の事でもあろう。
自分の心身の問題の解決は、他人によって成される事はない。
自分の事は、自分によく聞いてみるしかない。

また、子供の様に、時には楽しく「快」を求める事も武道の鍛錬においても必要であろうと思う。
安定した心持の時に、自分でも思わぬ動きをする事がある。

そうしたもの、純粋に自己の内側から出てきたものを大切にし、一度試してダメであっても、自己の奥底から出てきたもの、自分に合ったものであるに違いない。
改良と試行錯誤を繰り返して、本当の自分の技になっていくものであろうと思う。
様々な意味で「職人」でありたいと強く思ってしまう。

流儀の継承は重要だが、自己表現のひとつとして当流の技を学びたいと言う人たちにもっともっと自分以上に楽しんでもらえる様なものを提供したいと思う。
難度の高いものを克服できる楽しみ、過去の自分を超えていく楽しみは、死ぬまでワクワクできると思う。

仕事場の治療院とは別に、家族や親族に鍼灸治療を行う。
純粋に治療を行う。
鍼灸・漢方の古典の書を読むのに没入する。
武道の鍛錬をする。
武道の鍛錬具を工夫する。修理する。
ヒップホップ、ソウルダンスをする。
そこには、子供も、家族も、友人も、師すらいない、自分だけの時間と空間がある。

だが、本当に師や先達の言う事が理解できるのは、決まってそうした一人の没入した時なのだ。
一人なのに、師とつながった感じがする。
伝統医学も伝統武道も師と自分の区別を超えた「原理」の世界が広がってくる。
こうした時間がもう少し取れれば、もっと向上できると思うんだがなぁ。

ひとつの事に専心し、没入した世界。
何と表現すればいいのだろう。
自分にとって最高にぜいたくな時間。
この時間のために多くの時間を仕事と家族のために・・・・・・がんばらなくてはいけないのだろうなぁ。
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重力の利用〜唯一の原理〜

もともとその道の者であったので、たまに格闘技雑誌を買う事がある。
今日も現代格闘技の、とある雑誌を買ってみた。

何年か前までは、どっぷりと“古流武術カラー”に染まっていたので、現代格闘技の雑誌などは見る事があまりなかった。

その中でこの様な説があった。
「パンチなどの打撃の回転力が上がると、腰が軽くなってしまう。」
投げがある総合格闘技では、腰が軽くなってしまうのはリスクとなる。

どんな技術にも欠点はあるから、それを知った上で使えば良いのは当然だが、重力による落下加速度を利用する、日本や中国を主とした東洋の伝統武術では、打撃で腰が軽くなると言う事はない。
反対にものすごく重くなるのである。

パンチの回転が上がると、腰が浮き立ってしまうのは、床を蹴っての「反作用」を利用している動きであるからだ。
伝統武術においては、床を蹴るのではなく、反対に落下して沈んでいく操作を用いるので、全体重が乗る打撃となる。

逆に「腰が軽くなる」様な床を蹴る反作用による打撃では、下半身の蹴り出す筋力は伝わるが、下半身の重さを活かせていない事になる。

沈む動作により下半身も落下させてパンチにつなげれば、下半身の重さが落下した加速度による衝撃力が、パンチの打撃力にそのまま活きていく。

人間の筋肉は6、7割方が下半身についている。
この分厚い筋肉におおわれた部分の重さを活かさないのは、もったいない。
重さ×速度=衝撃力
と言われるが、全身の重さがちゃんと活かされているかは、身体の操作の仕方にもよるので、数式どおりにはいかないものだ。

また、腰だけでなく、全身を一瞬沈める操作による動きでは、打撃でも組合いでも腰が浮いてしまう心配がない。

この様に唯一の原理で動く訳だから、投げや打撃などと、技の種類に応じて身体操作法を変える必要がない。
いつも同じ使い方(原理)が、その場で形が変わるだけである。
迷わないで済む。

これは自分が今まで経験したフルコンタクト空手や、シュートボクシングなどで感じていた問題点でもあったので、よく分かる。

特にシュートボクシングは投げがあったので、特にその問題点を感じ、常に克服法を考えていた。

今はその時その場で様々な方法を変える様な神経は使わず、常に唯一の原理を追求していく事だけである。

「沈身」だけでなく、当流の他の原理である「鞭身」や「正中線」なども重力の利用法である。
しかし、これが如何様にも変化するので、その場その場での適切な使用法を学び続けなければならない。

ショウパブ勤務

前の記事で自分の恥について書いてみた。
今回はそんな「恥」と「大切な思い出」について書いてみたい。

前にも書いた事だが、自分が19才から22才までのシュートボクシングのプロとしての活動をやめた後、一時期格闘技を見るのも嫌になった時があった。
そんな時、格闘技をやっていなかったら絶対に「ダンス」をやりたかった想いが束縛から解かれた。

「よし、これからはブレイクダンスをやろう!!」
中学の頃、映画で見て衝撃を受け、人間離れした動きにあこがれた。
自分が目指したのは、床でアクロバティックに回る方のものではなく、ロボットや波の様な動きを主体とした「エレクトリック・ブギー」であった(現在のアニメーション、ポッピングと呼ばれるダンス)。

自分の友人でいち早くブラック系のダンスをやっている者がいた。
当時は90年代初め、第2次ブラック系ダンスブームであった。
その友人から、江東区錦糸町のショウパブの店長で、とてもブレイクダンスの上手な人がいる、と聞いた。

その人は自分より6才年上で、ダンスには非常に厳しい人だった。
ショウパブの営業時間は夜中の1時から翌朝の7時。
当時、父親と一緒に建築業の仕事をしていた自分は、休日の日曜の朝、ショウパブの営業終了時間に合わせ、教えを請いに通った。

最初に教わったのは、片腕のウェーブの動き。
「ワン、ツー、スリー」の3段階で手首、肘、肩と曲げていき、ウェーブを戻す時も3段階。
ショウパブの店員で先に教わっていた者がおり、師匠は「そいつに聞いて!」と直接は教えてもらえなかった。

「それができたらまた来な。」
難しい技術なので、ちょっと教えてもすぐ自分流に適当にやって、きちんと学び続ける者は少ないらしい。
ブレイクダンスの師匠は、それを知ってか、どこまでやれるかを確かめている様だった。

それができたら、また次の基本を教わり、しばらくしてできる様になったら、また次のものを習いに行く。
そんな事が半年ほど続いた。
なかなかダンスと言う形には近づけなかったが、しばらくやっていく内に認められ、
「いつでも来ていいよ。」と言われて、「これは毎日でも通うしかない。いや、働きながら弟子入りしよう。」と極端な結論にいたった。

その事を師匠に告げると、「じゃあ来週からでも来なよ。」と言って頂いた。
そんな事で、昼間の世界しか知らない“温室育ち”の自分が、夜の世界、裏の世界に足を踏み入れる事になった。

JR錦糸町駅のマルイの裏。夜になればそこはまるで違う世界。
外国人の飲み屋ばかりがひしめく大きなビル。
いろいろな国の人が行き交っている。
自分が勤めたのはそのビルのとなりのビルで、レストランやカラオケボックスなどの雑居ビルの3階。

夜中のお客さんがいっぱいになった頃には「ショウタイム」があり、オカマの人やお笑い芸人のたまごの人の出し物、そして自分は数名の仲間とヒップホップダンスをする事になった。

当時は現在の様に、自宅でいつでも好きな映画が見られたり、パソコンでどんな情報も得られたり、オンラインゲームなどが無かった時代であり、人々は娯楽を求め町がまだ賑わっていた。

結局、半年勤務して、店の移転の少し前にやめた。
やはり、夜の仕事は体力が落ちていくのがいちじるしく、これは自分には続けられないなと思った。
心身が慣れる事はなかった。

夜の店には「ケツもち」と言う制度(?)があった。
ケツを持ってくれる、要するに店にもめごと、トラブルがあった時に面倒をみてくれる「そのスジの人」たちの事だ。
今はそれらに関する法律も厳しくなった為か、なくなりつつある様だが、当時の夜の世界では、この手の人たちとの共存共栄(?)なくしては商売は成り立たなかった。

この手の人たちと遭遇するのは日常茶飯事であった。
「暴力」の怖さを知った経験も何度かある。
あまりおおっぴらには話せない事も多々ある。
その中で、初めて「暴力」に遭遇した時の事。

勤務した店にも、当然「ケツもち」制度があった。
そんなケツもちの人が直接お客で来ている事もあった。
ある日、とあるケツもちの人がなぜか店内で暴れてしまった。
「うちをかばってくれる立場の人なのに・・・。師匠である店長の店を守らないと。」

みなしばらく我慢していたが、酒ビンを持ち暴れだしてしまった時、自分はとっさに動き出し、彼の両手を強くつかんで壁に押し付けてしまった。
その間、他のお客さんは退散し、良かったと思ったが、暴れていた人は納まりがつかない。
矛先は自分へと向かった。

生意気と言う事で、ただひたすら殴られ、蹴られた。
自分もつい数ヶ月前までは一応プロの格闘技選手としてやっていた自負もあり、決して倒れる事だけはしない、とバカの様にずっと立っていた。

以前、鼻の骨を折って全身麻酔の手術を2回も受けていたので、鼻だけはかばっていた。
が、相手も背丈がそこそこあり、なかなか殴るのをやめてくれない。
そばでは師匠である店長や副店長がその人をとめてくれてはいるが、それを振り払って自分を殴る、蹴る、頭突きをする。
狂った様に殴り続けていたのは、後で聞くところによると、何かの薬物を使用して精神が興奮した状態であったらしい。

やり返したいのはやまやまだったが、自分がもしその場で相手を制圧できたとしても、その後の事を考えると、絶対に店長、師匠に迷惑がかかる。
それまで、あんな屈辱は受けた事がなかった。

いつまで続くのか、もう辟易としていたが、エレベーターの扉が開き、2人のそのスジと人思われる人たちが入ってきた。
自分を殴っていた人より、上の人たちであったらしい。
自分を殴りつけていた人の上着をつかみ壁にたたきつけ、自分に対し「おい、大丈夫か。悪かったな。」と声をかけて、殴っていた人の服をひきずりながら連れていった。
やはり、暴力のプロ。
学生の時のケンカとは次元が違う。恐怖も違う。

彼らが帰ったあと、店のみんなが「よく我慢したね。」「何もできなくて、すまなかったね。」と声をかけてくれた。
顔もずいぶん変形し、体のあちこちが痛かった。トイレに入って気が付いたのだが、股間の急所そのものがムラサキ色にはれあがっていた。
鼻だけはなんとか無事であった。

朝、帰宅して風呂も入らず寝たふりをした。
両親は試合があるはずも無いのに、何事か心配するに決まっている。
夜中出勤の朝帰りが常で、顔を合わせる事が減っていたので、逆に両親を心配させずに何とか済んだ。

この他にも色々と、昼の世界では味わえない苦汁をなめた事は、大変いい経験になったと思う。
しかし、他にも本当に危ない事にもたくさんあったので、良かったのか、悪かったのか。

ダンスの師匠は今は建築関連の技師の仕事をしている。
たまにであるが、師匠の家を訪ね、ダンスのビデオなど見て、夜中のファミリーレストランなどで食事をしていると当時を思い出す。
そんな時間は、自分にとってとても幸せな時間である。

原動力

自分が武道に取り組む原動力。
それは「劣等感」である。
不足しているもの、劣っているもの、それらに対する「うらみ」であると言ってもいいかもしれない。

「うらみ」などと言うとおだやかではないが、過去の失敗や間違った選択などに対する悔恨の想いである。
また、生まれ持った「いたらなさ」である。

思い通りに稽古ができていないと、このかつての劣等感や自分への悔恨が外に向かってしまう場合がある。
いい大人にもなって八つ当たりはできないが、外へは出さずとも自分の心の中で「不平不満」となっていく。

自分自身と向き合う事は、いやなものである。
だが、この自分の中にひそむ「劣等感・悔恨」は死んでも消えないと思う。
無理矢理消せるものでもなかろうし、見ない振りもできない。
それを直視していないから、自分以外への「八つ当たり」になる。
だが、どう扱うかで良くも悪くもなる。

自分は自分自身の「恥」に対して、正面から向き合っていきたい。
一生不満足。
満ち足りる事なく、自分の思ったものを追いかけていければいいなと思う。

いい稽古ができると途端に全ての不満が消失する事がよくある。
心身の吊り合いをとるのに、体を動かす事は大いに影響を与える。

昔は「劣等感」などの影の部分が原動力となっていたが、現在は「やらないと調子悪い」と言う様な“クセ”の様なものになっている様だ。

プロ仕様・一般仕様

鍼灸やマッサージなどの業務に携わり、長年気付かなかった事がある。
治療を仕事として行う場合、「必ずしも治療を目的とした患者ばかりではない」と言う事がある。

こちら側としては「いいものを提供すれば必ずまた来てくれる」と思う。
実際は、定期的に治療に来る患者さんは、治療内容やうちの治療院の雰囲気などなど、相性が良かったからとしか言い様が無い。

更に平たく言えば、こちら側の意図を「よく理解している」からリピートする訳である。
もちろん、それ以前に「治療効果があった」事が大前提になるが。
良い商品を用意しておく事は当たり前の事であり、それがなければ何も始まらない。

しかし仕事として行う場合、その様に深くマニアックな治療を望んでいる人たちだけを対象にしていたら、生計は成り立たない訳である。
患者さんの9割方は、当たり前だが「治らないと来ない」し、また「治っても来なくなる」ものである。

考えてみれば当たり前である。治れば治療に行く必要はない。
「予防治療」と言う意識にまでなるのは難しく、体調が良ければ他にやりたい事、やるべき事が山積みなのが現実だろう。

そこで一般に理解され易く、また要求の高いものを提供する事が必要になってくる。
また、それだけではなく、患者さんへの「理解」を得る為に相手が理解できる様な「言語」と話し方が絶対条件である。

これらの事が武道・武術の指導にもまったく共通であると思うのである。
自分が学び、技術を習得していく過程で、他の人から説明を受けて、そのとおり真似してもまったく上手く行かない事が多々あった。
それは初級者にとって当たり前の事である。

武道の技術は、その全てが身体の「感覚」によるものであるから、指導する側と教えられる側に「共通の言語」、「共通の感覚」がなければ理解できるものではないのであろう。
昔は長年師匠についてその真似から入り、全て「以心伝心」の状態になる様にしたのだろう。

現代は何かと忙しく、普通に仕事をしていれば稽古に割ける時間も自ずと限られてくる。
その様な条件の中で、その流派特有の感覚を共有する為の「稽古法」が必要であると思う。

宗家は来月のイギリスでの講習会に向け、武道空手の段階的修得法を編纂された。
今回のイギリス行きで、その効果が試される事になるだろう。

宗家はよく「一人一流」と言われる。
それは技の原理は同じだが、各人その表現の仕方が異なり、やや違った外観に見える事もある、と言う事だ。

自分自身強く思うのだが、いくらかではあるが当流の動きが可能になってきた過程においては、宗家や先輩のアドバイスをもとに
「さらに修得し易い方法」
を考えてきた。
あくまで自分自身の中だけの事であるが、過去の自分より確実に上達したと自負している。

特に宗家は、大本の和道流(現在の所属は和道会だが)から更に発展させ、新たな流儀を生み出された。
新しいものであるが故、指導体系などは、これからも整備、改変されていく事であろう。

自分も年をとれば、いやでも指導する側にまわる事になる。
今からその準備をしていこうと思う。

自分がこれほど指導法にこだわるのは、限度はあるだろうが、できるだけ多くの人に「理解」してもらいたいからである。
そうでないと、一緒に稽古する仲間もいなくなってしまうからである。
そうなると、「やりたい稽古も相手がいないのでできない」と言う悲しい事になってしまう。

対人の問題である武道を、相手のいない状態で詰めていくのは限界がある。
結局、武道愛好家にとって一番の問題である「自分の技量の向上」をかなえる事は、稽古相手の確保があって初めて可能となるのである。
それも技術に対して、共通の言語、共通の感覚を持った者の方が望ましい。

いくら素晴らしい技術でも「あの人にしかできないから真似するのは無理だよ」と言う評価になってしまっては意味が無い。

「情けは人のためならず」
と言うのは本当だなとつくづく思う。
指導内容を人のために整備する事は、自分の技術向上と言うものに直結する。
自分の事を思うのなら、他人の事も考えなければならないとはこの事かと痛感する。

最初に入門する者は、どれだけ武道・格闘技経験があろうとも、その流派においては「初心者」「アマチュア」なのである。
指導方法も「アマ仕様」と上級者向けの「プロ仕様」があって然るべきである。
他の先達の伝書や教授法も学び、できるだけ理解し易いものを提供したいと思っている。

自己催眠・自分を信じる

娘も来年は小学生になる。
自分と妻に似て気が強く、マイペース型なので、少々厳しく締める部分も必要であるとしてきたのが、最近はそれが少し過ぎた部分もあったのだろうか、逆に反抗的な部分が目立ってきた。

「愛情のこもった厳しさは必ず理解される」とはよく聞く事だが、なかなか難しいものだ。
叱った後の面倒もみる事も不可欠である。

子供の言い分をよく聞いてみると、自分に任せてくれないのが一番の不服であるようだ。
少しは子供の事に任せてやり、待ってやる事もしてやらねばと思ってしまった。

自分自身も経験があるが、子供にとって一番の原動力となるのは、
「親が信じてくれている。」
と言う事かなと思う。

何があっても子供を信じ、助言はするが基本的に本人に任せる。
任せてもらったと言う事が、原動力になるのは子供に限った事ではないだろう。

だが、ふと思った。
自分以外の人間は信じる事ができるのに、自分を信じる事はなかなか難しい。

宗家は、組手の攻防時に良い動きができる様に、自分に対し「自己催眠」をかけたと言われている。
静かな時間に集中して精神を統一するなど、イメージトレーニングは珍しい事ではないが、宗家の場合はさらにいろいろと工夫された様だ。

自分を縛っているのは、自分自身であると感じる事が多い。
「自縄自縛」
強気になり過ぎてもまずいし、慎重になり過ぎもまずい。
この自分の縄を解くのは、自分だけの殻に閉じこもらず、積極的に前進していく事であろうかと思う。

完璧はない・慣れは最大の敵

治療業務についていると、往診やデイサービス施設との提携なども行う為、介護予防と言う事に関連が深くなる。
その為、リハビリ、運動療法など勉強する事も多い。

あるトレーナーの考えを聞いて「う〜ん。」とうなってしまった。

「どんなリハビリ法、運動療法、ダイエット法も、必ず“長所”と“短所”がある。大事なのは、それらを見極める目を持つ事。」

「介護予防でもダイエットでも重要なのは、その手法、運動法に“慣れさせてはいけない”と言う事。常に慣れない方法を与えて心身を刺激する事で、“成長ホルモン”が活発に分泌される。それによって代謝が上がり脂肪も燃焼し易く、温まり易い体になり、今までに得た運動機能もより向上する。」
との事。

宗家が常に言われる。
「技に極致なし。」
極まると言う事、これで良しと言う事は万事において有り得ない。

当流の代表的身体操作の原理である、「居着かぬ足」や「膝の抜き」、「浮身」などは、自分の今までの経験で、この上なく便利であると思うが、宗家はこれらに対しても欠点や通用しないケースについて、いろいろと言われている。

例えば武蔵の五輪書にもある様に、「跳ぶ(床を蹴る)様な足使いはダメである。」と言われているが、これについて宗家は、
「長刀の様なもので足を払われた場合では、ジャンプ系の足さばきが必要だ。」
と言われている。
もちろん、通常のジャンプとは違い、できるだけ「膝の抜き」を応用した形のものにするのだが。

万事完璧と言う事はない。
おごらない心構えが重要であると思う。

また、常に新しいフィールドに自分を置く、と言う事の重要性。
成長ホルモンも活発に出るのだろうが、「慣れ」や「油断」と言う“悪”を断ち切るのに非常に有効であろう。
武術にとっては不可欠な事である。

昔は、初めて会った相手と、初めての場所で、初めての物(武具)を使って勝負しなければならない事も多かったろう。
突発性のトラブルも然りである。

武術は一瞬の勝負であり、準備など許されない。
武術のみならず、日常の生活も常に「初めて」が付きまとう。

初めて行ったショッピングモールで、駐車場が分からずモタモタする。
初めて行ったレストランで、道を間違えとんでもない所に出てしまう。
妻に文句を言われる。子供は寝てしまう。
初診の患者さんを診る・・・などなど。

小さい事から、大きい事まで良く考えてみると結構、「初めて」は多い。
それ故、全てにおいて「慣れ」は最大の敵となると、改めて感じた。

無意識・感性を満たす

最近、子供に厳しくし始めたせいか、その分言う事を聞かない事も増えてきた。
これは矛盾した事だが、ゆるめるところのメリハリがうまくいっていないのかもしれない。

帰宅時間が娘が起きている間にギリギリ帰れるか、と言う状況なので、平日も少ししか会えず、まともに相手をできるのが日曜位である。
子供にとってみれば、たまにしか会わないヤツが何かとうるさい事を言ってくるのは、反抗のもとにもなろう。

と言う事で、今日は「赤ちゃん帰り」をさせてやる事にした。
土曜は休みだが、自宅でも治療院をやっているので、患者さんの治療の合間に少し思い切って甘えさせてやった。

すると、自宅に来る患者さんにいつもより大きな声で挨拶をしていた。
やはり、人間は愛情面や自己の存在が満たされると、行動すべてが積極的で明るいものになるのかなぁと思った。

六歳ではまだまだ甘えたい年齢でもあるので、「アメとムチ」の吊り合いだなぁとつくづく感じた。

よく考えてみると大人でも、幼なじみや親友と過ごす時間は、好きな事を話し合い、自分を子供時代に戻してくれると言う事なので、仲間同士で「子供帰り」して互いに甘えているのだろうと思う。

この事からふと思ったのが、
子供→理性が希薄で社会性が未成熟→感性のかたまり→無意識・感性→自分の中の子供?
と言う図式である。

社会的な営みは生きる、金を稼ぐために不可欠である。
が、それは極めて理性的な営みであり、特殊な業種でない限り、その多くは「自己を抑える」事を要求される部分がほとんどであろう。

生計をたてるには社会生活が不可欠だが、生物の個体として見た場合、不自然さを強要され、生命力を著しく磨耗する作業であると感じる。
ま、楽であれば誰もそれに対して対価を払う訳はないのだが。

宗家は感性の重要性を常に説かれてきた。
現在は「感性教室」なども行っているが、それよりももっと基本的な部分での教えも以前からいろいろと頂いている。

「苦手を克服するも大事だが、欠点が少なくなり過ぎると、感性が死んでしまう。だからわざと手をつけず、そのままにしてある欠点もある。」
と言う事を、以前に宗家からお聞きした。

欠点だらけの自分などは、まだまだ考える事でもないと思うが、それでもやはり感性を活かす、感性を充実させる事は現代生活において重要であると思う。
感性が枯れると、愛すべきものも愛せなくなってしまう。

自分も疲れ果てて武道でさえ、いやになってしまう時もあった。
まあ、その様にドン底まで行った時に、本当にすべき事、必要な事が見えてくるので、それはそれで結構な事でもある。

以前、テレビのCMで、脳の解剖学者である養老孟司先生が、
「最低でも1日の内15分は、人間が作ったものでないものを見る事にしている。」
と言われていたと記憶している。
これは人工的なものにとり囲まれている現代人の、脳の本能をつかさどる部分にやすらぎを与える事と思う。

自分も仕事の合間、なるべく観葉植物や窓の外の空などの自然の産物を見ようと思っている。と言うか自然に目がいってしまう。
傍から見たらぼーっとしたやつになってしまうが。

その他、好きな音楽を聴いたり、近くの河川敷を散歩したり、庭の雑草取りをしたりと、いろいろな形で本能や感性に喜んでもらえる様な時間を持つ事にしている。
もちろん、武道の稽古も自分の心身と言う「大自然の産物」と語り合う素敵な時間である。

個人的に、屋内では音楽をよく聴く。
ブラック・ミュージックが大好きなので、疲れた時は透明感のあるR&Bやソウルのバラードなど聞いていると、大脳を直接マッサージされている様な気分になる。

必死さの中に、遊び心や楽しむ心が生じてくると、それは新しいものの開発につながるものと思う。

上の写真、お分かりでしょうか?
娘の頭なのですが、「コーンロー」(編み込みの三つ編み)を今日初めて自分で編んでみました。

自分はブラックカルチャーが好きなので、黒人のシンガーやダンサーなどがよくしているヘアースタイルのコーンローを、いつか娘にやってみたいと思っていたのですが、なんだかひん曲がってしまいグチャグチャです。

この一本編むのに20分位奮闘しておりまして、娘はその間に熟睡してしまったのでした。

小太刀と卓球 〜B-FIELD代表 山下 知緒氏〜

今日、70代後半の患者さんで、卓球暦35年の方からうかがった話で思った事。
「やっぱり体の中心に打ち返されちゃうと、何にもできないんですよねえ。」
これは卓球のみならず、テニス、バトミントンなどの競技に顕著な特徴であろう。

当流では、手先ばかり動いて体が動かない事を忌む。
いくら手足が速く動いても、体が止まっていれば、集中攻撃を受ける。
要するに動くと言う事は、相手の攻めをさばく事と、攻撃する事をしなければならないので、体が止まっておれば、特に武器に対しては最悪の結果となる。

武術の場合、体の真ん中を狙われる事が前提なので、そこをかわし、相手の真ん中に攻め入るのが通常である。

「卓球をしたとしたら、真ん中攻撃はよけられるかもしれないが、打ち返すのはどうやってやればいいだろう。」
と考えた。

すぐ浮かんだのが、小太刀を正中線の前に構えた状態。
小太刀を卓球のラケットに持ち替えた感じならイメージがわく。
この時、自分の想像の中で小太刀をラケットに変えて構えていた人物が「山下氏」である。

はかまと稽古着姿で、不敵な笑みを浮かべて卓球ラケットを構えている彼を想像してしまった。
ラケット越しにのぞく、ニヤリとした彼の怖い笑顔。
仕事中に笑い出しそうになったのをこらえた。
本当にやりそうな人物だからである。

若い頃、劇団に所属し、脚本も作成する武術愛好家。
充分過ぎる変わりダネである。
本当に知的で、しかも面白い。

彼と酒を飲むと本当に時間が早い。
くだらない話しもいいし、また武術の術理にも造詣が深く、彼自身も身体操作に関心が深く、動きそのものもかなりのものである。

酒を飲みながら、武術の話している最中の身振り手振りに「ぞっと」する事がある。
笑顔で話しているのだが、
「ここでこうして、ぱっとここをとりに来るんですよ。」
などと剣術や居合の動きを手だけでする彼。
「正中線にきびしい動きだなぁ。体ごと入ってくるし。今、彼が刃物持っていたら確実に殺されちゃうなぁ。」
などと酔った頭で考えてしまう。
そうして、彼と別れた後、あの動きをさばくにはどう稽古したら良いか・・・・・
などとまた考えて帰路につく(山下さん、酔った私の正中線を取らないで下さい。マジこわいす。)。

彼とはもう、10年以上の付き合いをさせて頂いている。
当時、自分は柔道整復師の専門学校に通いつつ、整形外科ではたらき、現在の「柳川道場」と、とある古流の居合、剣術、柔術を教えている道場にも通っていた。
そこで山下氏と知り合った。

彼は仕事を持ちながらも「B-FIELD」と言う、武術、武道の情報発信を目的とした活動をしている。
以下、簡単に彼のホームページからその活動の趣旨をそのままご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
B-FIELD(ビー・フィールド)は、武道・武術に関するイベント企画、情報発信をおこなう団体です。
さまざまな分野の人びとと情報交換しながら「知ってそうで知らない武道・武術の世界」を広げていく計画です。
また、武術の実技のみならず、歴史ファンや哲学探究者の視点からとらえた武道の世界、刀剣などの武器具を製作するサイドの技術論などもクローズアップしていく考えです。

【主な活動】
・武道家をゲストにむかえたトークライブ「武道・武術の世界」の主催
・千葉県・香取神宮における演武大会の企画・運営
・武術研究会「武学倶楽部」の創設
・奉納演武や滝行体験などをスケジュールにとりいれた武術合宿の企画
・専門誌における武術関連記事の企画提案

        B-FIELD    http://bfield.seesaa.net/

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特に、様々な流派の宗家を迎えた「トークライブ」は、一見、交流が無く、閉鎖的とも思える武術家たちの「生の声」で意見を交換すると言う、非常に画期的で斬新なイベントであった。

第2回目には、自分もお世話になっている「琉球古武術保存振興会」の宗家、井上貴勝先生もご参加され、ヌンチャクについてのお話をされた。
自分も2回とも見学させて頂いた。
その様な方々を集めてイベントを行える、山下氏の人間力に脱帽。
個人参加も有り、と言う古武道演武大会なども新しい発想である。

また、日本の伝統的な「手裏剣術の体験教室」も毎週土曜、定期的に行っている。
興味があれば、気軽に参加してみると良いと思う。
ただでさえなかなか体験できない、手裏剣と言うものを、素手の武術愛好家たちにも是非一度味わってみて欲しい。
「飛び道具」と言うだけで単純に脅威となる為、様々な発見があると思う。

卓球の話しから、正中線攻撃、武器術、B-FIELD、山下氏とつながった話しになったが、今度、改めて空手と武器術について書いてみたい。

疲れやすい体

ここ2週間ほどまともな練習ができていない。
仕事が少し忙しくなってきた。

治療院の患者さん向けに、介護予防の体操など(太極拳や空手の動作からヒントを得てアレンジしたもの)を指導する様になってから、若い世代の主婦から「骨盤や下腹」、「二の腕、肩」などに特化したエクササイズを、と言う希望が相次ぎ、オーナーからも治療院の宣伝にもなるし是非やってくれとの事で、それぞれのエクササイズのメニューや説明書きなどの作成、業務時間以外でも「お教室」の時間が入ってきており、少々疲れ気味である。

仕事と家庭、趣味の両立はなかなか大変だ。
趣味と言えども、趣味の域を超えた入れ込み様である「武道」だから、余計に疲れるのだが。
楽しいとは言え、仕事の疲労度との兼ね合いも少しは考えなければ。

シュート・ボクシング時代にコーチによく言われた。
「木田は2回練習に来ると、必ず1日休むなぁ。」
他の先輩方は5〜6日位は連続で練習に来るのが当たり前であった。

プロの経験までして、虚弱体質と言う訳ではないが、
自分は疲れ易い体質で、本来あまり強い方ではない。
それは若い頃からそうであった。

怪我の対処だけでなく、そう言った全体の疲労や体調不良の回復にも鍼灸、漢方に助けられた。

その後、二十代後半で治療院の雇われ院長に就き、年上のスタッフなども抱えて、ストレスの為か「逆流性食道炎」になり、胃の痛みと不調により、食パン2枚くらいを食べるのがやっとと言う生活が一ヶ月半位続いた。

その数年後、個人の鍼灸院を始めたが、患者さんは増えつつあるも収入はある一定のラインを超えず、食ってはいけるが、子供が成長した時の事を考えると閉院すべきかと考え、しかし、現在来院して下さる患者さんたちはどうする?と思うと、八方ふさがりになり、またしても悩みで「胆石症」になる。
自分の胆石は小さいものが10数個あったのだが、これが小さいばっかりに動いて胆のうの管につまる訳である。

発作は夜中に起こる事が多かった。
笑い話にも聞こえるが、腹の中からエイリアンの赤ん坊が食い破って出てくるのではないか、とも思える様な痛みである。
痛みのピークが少し過ぎたな、と思えたところで自分で車を運転し、救急へ転がり込む。
車では10分かからない場所であったので、なんとか行けた。

注射一発、ものの1分位で痛みがすーっとやわらいでいく。
伝統医学を専攻しているが、現代医学の素晴らしさを確認できた事は大変良い経験である。
この後、3回位は救急のお世話になった。もちろん、すべて自分の運転で行った。

本当に内臓の痛みだけは、もうごめんである。
あれほどつらいものはない。
それを思うと、末期ガンの患者さんの痛みはどれほどだろうか。
なんせモルヒネを使う位の痛み。想像がつかない。

しかし、そんな経験が治療の際、患者さんとの意志の疎通に非常に役立っている。
「内臓の痛みはホントつらいですよね〜。」
などとつらい話しで盛り上がる事すらある。
一緒に戦った「戦友」の様な気持ちになってしまう。

格闘技など続けていると、痛みや困難に対しての抵抗性が強い事をうらむ。
もっと早い段階でギブアップしておけば、ここまでならなかったろうに。
武道からみれば自分の器を認識していない事。これは自殺行為だ。

その様な経緯があり、多少は自分の領分をわきまえてきた様に思うが、状況が許さないと言う事もあるのだなぁとつくづく感じる。
そうした非常事態にうまく対処してこそ、武道をやっている価値があると言うものだが、それが分からないからこそ、懸命にやっているとも考えられる。

合理的に事をすすめる事は、武蔵も五輪書で言っているが、妻帯し子供もおり、年老いた両親も同居する中で、すべて「合理的」にやってしまったら、人間失格になりそうだ。

自分にとっての「合理的」は、あくまで家庭や友人との時間を維持する上での合理的であり、そのスタイルをいまだ模索しているのかもしれない。

武道を探求するための「合理的な生活」も素敵だが、一番大事に思うのはしっかりと自分の意思で生活しているかと言う事。
今までにも、いつの間にか「他人に操縦されている」かの様な状況におちいった事が幾度かあった。

武道でさえ、自分で「やろう!」と思っているのに、いつの間にか「何だかやらされている?」かの如き状況になっている事も。
振り返ってみるに、それはムキになり過ぎて生活全体の統一感が希薄になった時であろうと思う。
やはり「楽しむに如かず。」である。

しかし、こうした想いとの戦いは、生きている人すべてが大なり小なり抱えているものであろう。
常により良い生き方を目指していく事は万人の課題なのかもしれない。

昔、鍼灸の大先生に諭された事がある。
「不安の無い人生を送ろうなんてのは、ずうずうしい考えなんよ。」
いやまったくその通りであります。先生。

私は外見に似合わず冷えやすいんです。
そのため涼しくなってくると、スパイスティーを毎朝作って飲んでます。インド料理屋さんではチャイとかマサラティーとか言われてますね。

スパイス・クラッシャーと呼ばれる石の器と棒で、スパイスをつぶしていきます。
東南アジアでは家庭に必ずある調理器具です。
ミルサーで粉状にひくのもいいのですが、つぶすとなんとも言えない「鼻を直撃!!!」みたいな香り方でサイコーです。

こちらの写真のスパイスはシナモン(桂皮)、ナツメグ(にくずく)、カルダモン(小ずく)、コリアンダー(香菜、パクチーの種)、クローブ(丁字)、ブラックペッパー(黒胡椒)などです。
ほとんど漢方の原料そのものなんですよ。

ショウガのスライスを加え、煮込みます。
茶葉を適量加え、最後にミルクとはちみつで味をととのえてできあがり!!
冬場の朝には最適ですよ!

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