武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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受け継ぐものは「理」

普段の仕事の中で、治療院の若いスタッフの子たちに治療上の様々な指導をする。

彼らは別に自分の弟子ではなく、働く場所を求めてやってきただけなので、自分自身は同業界のちょっとした先輩と言っただけの者である。

しかし、鍼灸、指圧などなど、人の体を整える技術について、自分の持っているものは、惜しみなく出している。

治療家でも武道家でも技を秘して、弟子にさえ教えたがらない人もいる様だが、自分はその様な気持ちは毛頭無い。

それは、自分の技術が良いものであるならば、どんどん盗んでより多くの患者さんを楽にして欲しいと思うからだ。

また、どれだけ教えたところで、自分の技は絶対に真似できないだろうとも思っているからだ。

逆に、教えた子たちが、教えられた技を消化し直して表現する技術は、自分には絶対に真似できないものである。

重要なのは技の原理を伝える事。
「理」、「フィーリング」、「エッセンス」・・・。

技術を支える根幹、原理を理解すれば、あとはそれを追って精進するのみ。

修行段階には、「守・破・離」なるものがあり、「守」の段階では師の形をほぼ真似できる様になる事が求められるが、厳密に言えば守の段階に至るにも、「離」(最後に至る個性の開花・変化応用)の様なオリジナル性を持った感覚が必要とされると思うのである。

完全なる「守」は無い。また完全なる「破」、「離」も無い。

であれば、自己の硬い頭を少し柔らかくして、様々な手段を使い、その技の「理」を獲得する事である。

武道空手にしても、自分は柳川宗家の様々な技術の形ばかりを追わない様に心がけている。

大切なのは「正中線」と言うエッセンスである。

つまり攻防一体で、自然の法則を活かした極限までの破壊力と、万能の変化を身に付ける事が目的なのだ。

できるかできないか。

それだけが問題だ。

師の指導方法だけに頼らずに、自分なりにもどんどん進めなければいけないのは、どの道を修めるにしても、とても重要な事であろうと思う。

一見自分勝手にも思えてしまうが、それは積極性であり、自分の個性を認める事であり、開拓していく力強さである。

しかし、いつも思うのは、これも人によるタイプの差で、きっちりと人に教えられた通りにやって上達していく人と、自分で色々と試行錯誤しながら上達する人がいる。

柳川宗家ご自身が、試行錯誤しながら現在に至ったので、当流の基本は試行錯誤をするに向いた技術体系になっているのではないかと思う。

また、武道だけでもこれだけの流派が存在すると言う事は、それだけ多くの「独立」していった武術家たちがいると言う訳だ。

純粋に日本の武道で、亜流は認めないと言う事になったら、香取と鹿島の二大流派しかなくなってしまうのではないかと思ってしまう。

だれが本物、だれが本家、あそこは偽者、などと言う事ではなく、実践家でいるならば、あくまで技術ができるかできないか、と言う一点にこだわっていきたいと思う。

宗家の偉業に敬意を払うならば、必ず成し遂げなければならないのが「伝承」である。

生きていくには様々な困難もあるが、できる限り武道空手を実践で示す事を追求していきたいと思う。
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B-FIELD山下さんの新たな試み

親友であるB-FIELD代表の山下さんが、現在ご自身の主催する手裏剣術稽古会にて、独自の稽古体系をまとめようとされている。

この画期的なところは、自分も大事にしている「対人」と言う事にこだわっているところである。

手裏剣術と言うと、真剣を人に投げるのは到底無理なので、基本的に的へ向かって打つ事が稽古となる。

ともすれば単なる「的当てゲーム」にもなってしまう要素がある為、伝統の手裏剣術諸流派も様々な工夫を凝らしている。

山下さんの最も面白いところは、剣術の組太刀稽古のエッセンスをそのまま手裏剣術に持ち込もうと言うところである。

何かと言うと、単なる手裏剣の速さだけでなく(野球のボールの速さの様な)、手裏剣が手元から離れるまでの、「相手から読み取られない様な動き」で剣を打つ事である。

一体どんな稽古法になっているのか、今度会う時がワクワクである。

居合や剣術で鍛錬された彼の正中線の操作は、自分にとっても脅威に感じる。
実際に剣を持たれて、こちらが徒手で対応するのは、通常のやり方では絶対無理である。

彼が所属するところの組太刀稽古は、一見まっすぐな線上での前後の動きしかない様に見えるが、実際に対峙してみると、自分の攻撃をかわす分だけの極小の動きで、横に縦に変化するので、「目の前から消える」のである。

伝統武道に共通する攻防一体の身体操作であり、自分としても当流の原理と一致しているので、非常に分かり易い。

昨年からお互いに多忙で会っていないが、また飲みに・・・いや、一緒に稽古したいですね!

山下さん!!

下半身の鍛錬

先週の日曜に久しぶりにジョギングをしてから、全身のつながりがまとまった感じで調子が良かった。

稽古量の不足を一気に補えた様だ。

細かい体の操作ばかりが主になってくると、そうした全体の動きが疎かになる。
また、体内の様々な循環や代謝を整える意味で、単純に運動量だけ求める事も悪くは無い。

仕事の疲れや、知らずに付いてしまった動きの悪いクセ、偏りを整えるには最適だろう。

一つの動きをじっくり行う事は東洋の武道ではすでに鍛錬法として確立しているし、そう言った意味で全ての運動を見直してみるべきか。

全身運動と言うと、やはり足腰の運動量が多い。

宗家からも
「上半身の方が強くなっちゃうと、体のつながりがなくなっちゃうんだよね。下半身をよく鍛えるとだんだんつながり(全身の)が分かってくるよ。」
と指導を頂いた事がある。

今日も足腰をしっかり動かしていこうと思っていた。

昨日から、あいにくの雨。
カッパでも着て走ろうかと思ったが、今日は室内で筋トレ的連続運動を考えた。

とすると、やはりスクワット。
高校卒業後はレスラーを目指した事もあったので、馴染みのある運動だ。
拳立て500回、スクワット700回のメニューは自分の原点である。

今はそれほど回数はできないが、やはり武道的原理を持ち込み、その上でリズムと反復性を持たせてやってみた。

1回1回、沈身をきかせて、力をぱっと抜く操作に重点を置き、リズミカルに繰り返す。

フルに屈伸させたり、しゃがんだところから20〜30cm位上がって、またすぐにしゃがむと言う様に、膝の動きの範囲に変化をつけながらやった。

筋肉は左程疲れを感じなかったので、その動きを維持しながら武道空手の動きへと移行。
前手での突きを左右や下への転身を加えながら、短い距離で短打の様な瞬発的な動きを繰り返す。

なんだか、正中線の位置が正され、首筋や背筋が伸びて、踵をしっかりつけたまま、気持ち良く動ける事ができた。

この後、先日の道場稽古で宗家から鍛えなおされた「平安」の形をやってみたら、動きの切れがかなりいい感触であった。

下半身を鍛えると、胃腸の調子もよく、気分も冴える。
普段は無い頭で色々な事を考えているので、頭がのぼせているのだと思う。
仕事で疲れるのは、肉体よりも精神的なものが上回っている様に思う。

下半身の筋肉群は、全身の6割からそれ以上の量がある。
それだけのものに、血が停滞したり、硬くなったりすれば、頭から血がおりてこれなくなる。
そりゃあ体調も狂ってくる。
今週もリアルな夢ばかり見ていたしなあ。

一通り練習を終えて、二階への階段を昇ろうとしたら、カクッと膝から崩れた。
沈身などの、武道的身体操作で動いていると、動いた感じがあまりしないので、疲れているのに気付かない事も多い。

宗家は筋力鍛錬でも回数にこだわってはいけないと常々言われている。
しかし、それもとことん回数をやってみた者が言える事であるのも忘れてはいけないと思う。

宗家は若い頃、「12時間連続空突き」を慣行したり僧侶が行う荒行も完遂した人なのであるから。

質と量のバランスについては、各々が自分の身体とよく語り合いながら考える事が重要だろう。

どちらにもこだわる事なく、自分が納得いく稽古が大事。

今日はよく眠れそうだ。

娘の大流血!?

いつもより早めに帰宅して夕食をとっていた時、妻と娘が風呂に入っていた。

娘がおでこにティッシュのかたまりを当てて自分のところに来た。

「パパ、おでこ切っちゃった!」
「!!!(絶句する私)」

すでにティッシュの大部分が赤く染まっていたので、こちらの意識が遠のいてしまいそうになった(弱いなぁ〜)。

なんでも妻がシャンプーしている隙に、湯船で潜水の練習をしていたらしい。

柳川宗家からも

「呼吸を止めていられる時間が長くなると、なぜか感性が働く様になる。」

とお聞きしていたので、娘にも英才教育(?)をほどこそうと、自分が一緒に風呂に入れる時に、いつも「息止め競争」をしていた。

今日も自主練習をしていたのだろう。
そして、頭をガバっと上げた瞬間に、湯船のふたにぶつけたのだ。
プラスチック製の物だが、角の鋭い部分にうまい事当ててしまったらしい。

うちは家は大きくないが、湯船と庭は結構大きい。
どちらも子供には格好の遊び場だ。
娘の傷を見てみると、もうちょっといったら1針縫うだろうと言うサイズ。
しかし、傷の中央部が結構深く、血がにじみ出てきている。
髪のはえ際で良かった。

見ているこっちが痛い。・・・痛い!・・・痛い!!!
気をしっかり持たねばと思いつつ(大げさ)、オキシドールで消毒する。

「これはイテエからな。歯をこうやって食いしばっておけ。」
と言って消毒開始。

「なんかスースーする。」
「えっ!?」
「あんまり痛くないよ。ちょっと痛いけどね。」

あまのじゃくな性格の娘なので有り得る事だが、これはやせ我慢できるレベルの傷じゃねえだろう・・・・。
コイツ、結構根性あるのかも。

だいぶ気持ち悪くなってきた。
なんせ食事の途中だったので・・・しかもマグロの切り落とし・・・もういらない。

赤ん坊の頃、食事している横でウ○コのオシメを替えられた時の方がよほどましな気がした。

よく男の子のママさんで、
「ちょっと目を離した隙に、頭から大流血してんの見て倒れそうになった!!!」
と言う様な話を聞く。

「傷は大した事なくても、頭ってのは出血し易いからね。元気な証拠だけど、大変だったね。」
なんて言ってたが、今日は自分の方が情けないのを痛感。

あ〜あ、デコの真ん中にある水疱瘡のあとの他に、もう1個消えない傷が増えそうだな。

あっ思い出した。
自分もプロ2戦目の時、右眉毛の生え際に肘でカットされて流血した時の傷がくっきりと残っている。
それだけじゃない。

鼻の骨折で2回も手術もしてる。しかも全身麻酔で。
膝の靭帯は切ったし、大小様々な怪我はしょっちゅうしてた。

これは親に相当心配かけたなぁ。
ものすごい心配性の母親だったので、なおさらだ。
オカアさん、ほんとごめん。
(心配性過ぎて、同居する嫁にはちとやり難いとこもある様で・・・)

反対にオヤジが自分が好きでやってんなら、なんでもやってみ。って感じだったので、やらせてもらえた競技格闘技生活ですな。

自分の娘が全身麻酔なんて聞いたら・・・・。
いや、聞きたくない聞きたくない。

いやぁ、今日は子供を見守る親の根性のすごさを知ったなぁ〜。
オヤジ、お袋、リスペクトです。

久々のランニング

今日は、久しぶりに近所の土手を走った。
5km位を40分かけたから、ゆっくりペースだ。

何ヶ月振りだろう。まともに走ったのは。

またに20分ほど軽いジョギングをする事はあったが、色々考え、試しながら走れたのは今年に入って初めてか。

忙しさの為、自分の肉体のエンジンが立ち上がってくる様な練習はできていなかった。

技にこだわり色々な事をやっていると、かえって神経が集中できず、それなりの成果はあるにはあるが、心身が満たされない稽古になってしまう。

「今日はこれ1つだけやろう!」
と言う位の方が、運動量として満たされるだけでなく、身体感覚に深みが出て、そこから応用的に他の動きをしてみたくなってくるもの。

基礎体力だけでなく、身体の器用さを求めるには、「リズム」と「反復性」を持たせる事が必須だと思っている。

そう言う意味では、走る事は人間のもっとも基本的な全身運動であり、様々な身体操作を試す事ができる。

ランニングに空手の形の要素を様々取り入れてみた。

形、ワンシュウの最終部分の猫足手刀受けの左右連続。
股関節や膝、肩の抜き(自然落下)と内股や首筋の正中線を意識して。

平安二段の歩み足による、前進しながらの連続上段受け。
前足が着地した瞬間に、後ろ足を出す事を意識して。

平安三段やナイハンチの腰の切り動作。
腰の切りと両肘を脱力して正中線上に寄せる事を意識して。

基本組手一本目の上段突きの受け動作。
肘が正中面上をとおり、しっかり上に上げる事を意識して。

その他いろいろと試しながら走り込んだ。

忙しく、充分稽古時間が取れなかったこの期間、部分的な稽古になってしまっていたのか、身体のつながりがなく、バラバラだったのが、上記の走り込みによって体中のつながりが出たのを感じた。

また、動きの中心となる腰腹、「丹田」と言うポイント。
この位置を確認できた。

最近、腹筋と背筋のバランスが悪いのか、腰に疲労が溜まり易くなっていた。
まぁ、仕事が鍼灸治療やマッサージなので、前屈姿勢が多い事がその要因でもあるが。

忙しいと、そんなに良い姿勢でばかりはいられない。

腰の弱さか、と思い、色々と腰腹に対する鍛錬法を工夫してみたが、どれもこれと言った感触はなかった。

これが武道的走り込み(?)による全身のつながりを取り戻せた事で、一気に解決。

やはり最終的には、全身運動に尽きる。

マラソン的な繰り返し動作による稽古は、一見技の細かい原理などを追及するのに向いてない様に思っている人もいる様だが、全てはやり様だろうと思う。

自分はリズムを取って、反復する稽古法で、確実に自分の身体に覚え込ませる事が可能だと感じてきた。

リズムと反復性がなじむと言うのも、過去に自分が打ち込んだ流儀の影響を受け続けている特性なのかもしれない。

心のスイッチ

人が本気になるには、強い感情を受けないとならない。

いいショック。

悪いショック。

どちらにしても、それによって確実に前進する事ができる。

人が本気になる。
心のスイッチが入る。

人は本気になると不安や恐れはあっても、それを滅するパワーが生まれる。


自分は高校の頃から、プロの格闘家へと言う目標が明確になってきた。
それはプロ2戦で早々に辞めてしまった22才までの数年間、最も熱く、最も激しく生きた時期だった。

心だけでなく、肉体のスイッチも入りっぱなし!!だった数年間。
この様な時期の経験を、心も肉体も忘れてはいない。

以前、心のスイッチが入らない様な仕事をする日々があったが、あん時はホント、ツラかったわ。
あのままじゃいずれ精神が病んで病気してたよ。

好きな事や、守るべき家族の為とは言え、心のスイッチが入らないんじゃ、自分の様な人間は決して長くは続かない。
メンドウな性格だよホントに。

「大人なんだから、それ位我慢しろよ。」
と何度自分に言い聞かせたか。

こういった時は見事に酒の量が増えるね。
これの前にも同じ様な時期がありましたよ。

今はせっかくボトルキープしてある2軒のSOUL BARにもたまーにしか行けてないよ。
酒が弱くなっちゃったみたい。今は。

毎日の仕事と練習、通勤途中でも鍼灸の先生の漢方医術講座聞きながらさ、結構、満身創痍だと思います。

だから、眠くなるのが早くて。

両国のバーのマスターに渡す約束のCD。
まだ渡せてない。


最近、武道空手の稽古をしていても何だか、手抜きしている様な、本気でない様な気がする。

これって何だ?

去年、当流がイギリスから招聘を受け、今年もまた宗家がブラジルへ一ヶ月程滞在し武道空手を指導され、宗家の希望でもあった海外への進出が進んできた為、ここらで武道空手の指導要綱をまとめて、皆で共有しておこうと言う動きにあり、道場生全員の技術の底上げで、修得手順もさらにさらに整備されてきた。

しかし、ここで言う事を聞かない我がままなオレの体。

仕事で多忙で練習から遠ざかって(毎日ちょっとはやってましたが)いたので、まずは基礎体力を自分の納得するレベルまで引き上げないと、技術研究を肉体が受け入れてくれないみたい。

心の沸点まで、ヨッシャー!!!ってなれる位のショックが必要です。
心身ともに「キターーーーーーーーーー!!!」みたいな感じが大事です。
そうです。全てはノリです。

今の稽古の質と量では、肉体の方もなかなか立ち上がってくれません。

以前は2時間動きっぱなしで、1回やれば2kgは確実に体重が減る様な稽古してたからってのもありますが、今、この年齢でその頃の質と量を求めるのもおバカな話です。

仕事でも当然疲れるし、家族サービス、武道空手の稽古、東洋医学だってもっと勉強したいし、通勤途中も鍼灸の先生の講義を聞きながらで・・・・結構、満身創痍じゃない?

でも!
自分が盛り上がらない、心身のスイッチが入ってない状態での稽古は、かえって気分を悪くするので、少しずつ過去の練習法、フルコンタクト空手やシュートボクシングの時のものを導入してます。

それで肉体をしっかりと立ち上げてから、動きの質を武道空手的に変換して、武道空手の鍛錬に入っていく。

これベスト。
武蔵も言う! 入りやすいとこから入れと!!

どんな流派に属していようと、一流派の純粋培養で育つ人、特定の流派に属しながらも他の要素を取り入れつつ育つ人、大まかに分けてこの2種類はある様な気がする。

過去の自分を認め、取り入れて、現在と調和させていく。
この作業無しには、なかなか前に進めなさそうだ。

自分のスイッチは自分でしか入れられないからね。

さっ明日も休みだからもうちょっと動いてから寝ますかね・・・。

武道と死

なぜ自分は武道をやるのか?
理由は色々あると思うが、一番の基本となっているのは「死の恐れから逃れたい」からだと思う。

いちいちこんな事考えて武道やってるのかと、自分でもメンドクサイ奴だなと思ってしまうが「死を回避したい」と言う感情は、人間なら意識的・無意識的に誰もが持っている本能なのではないか。

人間誰しも、自分でも理解不能な相反する部分を持ち合わせるのが普通なのではないだろうか。
東洋医学的な陰陽論から言えば、相反する物がセットになっているのは極々自然な事。

いまだに自分の中に「武道をやりたい」と言う気持ちと「武道をしたくない」と言う感情が同居している様に感じる。

それは自分がプロ格闘技をやめた時から、少しずつだが、はっきりと感じている。
この相反する感情は、どちらも死から遠ざかりたいと言う目的から見れば一致している。

昔は自衛の手段、国防の手段として武芸、兵法が学ばれた。
武道は実生活に不可欠な存在であったに違いない。

現代でも物騒な事件は多く、武道はたしなみとしてあった方が良いが、現代でごく普通の生活をしていれば、必要だと実感できる事は少ないだろう。

それでもこれだけの武道、格闘技愛好者がいる。
単純に
「やりたいから」
「気持ちが良いから」
と言う事もあろう。
しかし、これらは皆、死の恐れを克服したいと言う、生命維持の本能でもあるのではないか。

肉体的暴力で相手を制す。
肉体的に自分が優位だと感じたい。

しかし、いくら「強さ」を手に入れたとしても「死」から逃れられる者はいない。
試合などに臨むのは、死を受け入れる覚悟の鍛錬かもしれない。


人間の欲は様々あれど、結局全て「死の恐れの克服」につながりそうな気がする。

金銭欲、名誉欲、権力欲でも他人から認められたい、つまり1人でない事を確認したいなどの思いから来るのではないか。

食欲は死の回避、生命維持として当然。
性欲は、激しく衝動的だが、それほどの強いエネルギーがあるのも「種の保存」の目的からだろう。
自分は死んでも、自分の遺伝子を残そうとする無意識の欲(行動のエネルギー)。

自分自身だけの欲望で動いている様だが、遺伝子さえ残せば良いと言う事なので、それは個人の快楽の欲望に見えるが、未来の子孫(種)への大きな無意識の愛情なのではないか。

欲望は本能であり、それらは皆無意識につながる。


自分が東洋医学などを仕事にしているのも、「死の恐れ」を回避したい気持ちの違った表れ方だろう。
自分の死も、他人の死も見たくない訳である。

時として、武道や格闘技より医療の方が、死の厳しさを見せ付けてくれる。

以前、個人治療院をやっていた時、何人か見送った患者さんがいた。
紹介があって往診に出向いていたのだが、すでに末期の死病で、自分の無力さばかり感じたものだった。

しかし、それでも治療を仕事とする。
結局好きなのである。

武道に対しても同様で、色々と余計な事を考えてはいるが、好きだから続くのである。

棒術鍛錬

今日も自宅でゆっくり。

昨日、道場で指摘された点を確認しようと思った。
天気もいいので、庭に出ると気持ちいい。



(うちの庭。写真右手に見える袋をかぶせた立った板は巻きワラ。ワラの物を使用してるので、雨で腐らない様に普段は袋をかぶせてます)


昨日の道場で、久しぶりにあったヨシオさんと短打のミット打ちをした際に、
「左(の短打)が内側にぶれて、力の方向がずれている感じ。」
と指摘された。

また、宗家からは、全てにおいて前足が出過ぎるとの御指摘。
これらを克服すべく、鍛錬開始。

今日の課題。

低めの腰で腕の動作を下半身と一致させ、なるべく足よりも腰で行う様にする。
その動作を正確に手腕につなげ、正確な操作をする。

下半身の正しい操作で、力と速度、方向性を鍛錬するのに選んだのが「六尺棒」。
宗家も木刀の他、杖(じょう。120cmほどの棒)を好まれる。

自分は琉球古武術でもお世話になっているので、武器術や道具を応用する発想は事欠かない。有難い。

まずは普通に六尺棒を両手で持って、「前手突き」と「貫き突き」を左右の構えで繰り返す。

「貫き突き」は、前手の掌の中で棒を滑らせて、後ろの手で突く、槍を突く様な伸びのある突き動作。

ふとももや股関節、腰腹への負荷がもうちょっと欲しいので、
「そうだ、棒にケトルベルでもぶら下げてみよう。」
と思い、最初は4kgのものを棒先に下げてみる。



(写真は娘が撮影。小1になり携帯もバンバン使える様になってしまいました)

大ハンマーとは違い、より棒の部分が長いので、負荷が充分全身にかかって良い感じだ。

棒の突き引きをゆっくりやっているが、棒が少しでも傾くとケトルベルが滑って前後に動くので、手首や肘の操作が上手くないと思い、
「そうだ、ケトルベルの握り部分の穴に棒を差し込む練習をしてみよう。」
と思った。

さながら少林寺三十六房である(同世代の方なら分かると思います)。




手首や肩、下半身からの正中線を意識してやるが、なかなか慣れない。

気分を変え、力技の鍛錬へ。

ケトルベルの4kgを棒先にぶら下げていたが、より負荷を後ろの手腕や腰、体幹部にかけたかったので、両手で持っている中間のところに8kgケトルベルをぶら下げてみた。




う〜ん、いい感じに体幹部と下半身に効いてきた。

しかし、またここでケトルベルが前後に動いて困る。

棒を水平に維持したままで突き引き動作をするには、より肘、手首の柔らかさと、それに体幹部から下半身の正中線を合わせていく、独特の感覚がある事が判明。

普段、空手だけをやっている時は体幹から下半身の正中線は意識すれども、こんなに手首や肘の柔らかさを維持する意識はなかった。

これをもって空手をすれば、より柔らかい手腕の鞭身と、より正確な操作が期待できるかもしれない。

練習が盛り上がってきたところで、娘が自転車を練習したいと庭に出てきてしまった。
前に教えたとおりにやれと言い、一人でやらせた。

庭で自転車を練習する娘を横目に、再度、ケトルベルの持ち手の穴に棒を差し込む練習へ。

「あれ?さっきよりも調子がいい。」

きっと、重さをかけて、なおかつ棒の角度を維持しながら行う鍛錬で、手首、肘、正中線の調和が取れてきたのかもしれない。

重さを掛けると、運動感覚に関連する神経系統がより強く知覚するからだろうか。
その意味で言えば、「軽いもの」を扱う事の方が、かなり高度であると言えるだろう。
重い物よりも実感が薄い訳だから。

さらに言えば、何も持たず、身体に何の負荷も掛けていない状態の場合が、最も繊細に感覚を使わなければならないのだろう。

徒手空拳の空手の稽古、心してすべし。
また、道具は大いに活用すべし。

「自転車あきたぁ。」
と言う娘の一言で、また中断。
練習するのを中断したくない思いから、
「棒使って遊ぼう!」
と、自分のフィールドに持ち込む。

庭の縁石を伝い歩きしながら、棒をよけて行く遊びを考えた。
これは体捌き、転体しながらの歩法練習に最適だ!!と思った。




「じゃあ、これをよけて下さ〜い。」
すぐにのってくる娘。
嫌いじゃなさそう。

娘は3歳位から顔への攻撃を避ける練習をさせていたので(顔は正面を向かせたまま、ちゃんと転体をさせてました)、なかなか上手。
4歳からずっとバレエもしているので、柔らかさも充分。

真っ直ぐに自分に向けられた棒をよけながら、細い縁石の上を歩み続ける。
自ずと身体の一部だけを左右にしならせて前進する事になる。

顔や胸なら比較的容易だが、膝の高さは結構やっかいだ。

ゆっくりやればできるが、いくらか速度をつけると俄然難しくなる。
これはかなり重要な鍛錬になると思った。
(道場生のみんな!一緒にやろうよ)

やはり、遊びの中からの発想は、自分にフィットしたものばかり生んでくれる。
例え失敗に終わっても、次につながる。

この辺りの事は、自分の子供にもすすめたい。
基本は押さえた上でも独創性を持つ事を大事にしてもらいたい。

親子してだいぶ調子が出てきたところで、

「カレー粉買ってきてー!!!」

と言う妻の一言で、全て終了となった。

う〜ん・・・。

菩薩道と修羅道

武道と医学は一体である。

怪我の治療や体調の維持など、格闘技や武道の様な激しいぶつかり合いが常となるものでは医学の助けは不可欠だ。

どこの国でも、伝統武術、近代の競技格闘技を問わず、必ず医学の恩恵を受けているものだ。

自分がお世話になったある鍼灸師の大御所の先生は、御自身も空手の経験をお持ちだが、
こう言われている。

「よく気を扱うと言う事で同じ様な見方をされるが、治療家と武道家はそもそも気の質が違う。治療は菩薩道だが、武道は修羅道だからだ。」

との事である。
自分自身、現在もできる限り心血を注いで打ち込む武道。
武道の技術の向上から身体感覚が発展し、治療の技術に還元できる。
自分の治療術になくてはならない武道。

プロの世界を早々に辞めた理由も、その先生の言う「修羅道」に身を置くのが嫌になっての事である。
プロまで行って、自分の性格に合わないとやっと悟ったのだ。

今現在はどうか。

やはり武道は人の肉体を壊すと言う目的から逃れられないが、今はぶっ壊し合いの様な試合はせずとも、技量を高める稽古ができる流儀にいる。

しかし、矛盾してしまうが、それでもある程度の「修羅」を持ち合わせていないとできない部分が確かにある。

医道もここぞと言う時には、修羅の様に厳しい気持ちが無いといけない時がある。
そう考えると、未だ菩薩道と修羅道の間がよく分からない。

武道は肉体を使い、その是非を端的な結果として現してくれる。
真の武道は、個性、感性を開花させ、人の様々な能力を引き出してくれる。
自分の様な短気者の場合、治療家を続けるには、なお武道が必要に思う。

自分の技がもっと高度になれば、荒々しい自分をよくコントロールできると思うのだが・・・。

自分の気持ちの中ではまだ整理がつかないままでいる。
単純に治療だけ、武道だけを専攻していたら、そんな迷いはなかっただろう。

全ては陰と陽。
菩薩道と修羅道は、その時その場でくるくると入れ替わり、変化する。
自然現象とまったく同じ。

双方の為に双方をやり続けているとは分かっているが、あまり区別、差別しないで、双方の鍛錬に励んでいきたいと思っている。

総合格闘技テレビ観戦

昨日、総合格闘技の試合をテレビで観た。
その中の、田村潔司選手と船木誠勝選手との対戦は感慨深いものがあった。

2人とも39歳。
自分も39歳と、同じ年齢と言う事もなおそう感じさせるものではあるが、自分の場合もう少し近い距離で見られる理由がある。

田村選手、船木選手、2人とも「U.W.F」と言う団体に所属していた。
当時のプロレス、格闘技ファンなら誰でも知っている伝説的団体である。

プロレスから総合格闘技への道を作り、現在の格闘技全体の流れに強く強く影響を与えた団体であったと言える。

U.W.Fと自分の出会いは中学三年の頃。
打撃から投げ、寝技に持ち込むと言うリアルな展開に、「そうでなくては!!」と強く感じた。
当時、日本少林寺拳法に打ち込んでいたが、少しずつ自分の中で求めるものが微妙に変化しつつあった。

高校に入り、フルコン空手からグローブ空手へ移行し、卒業後はいずれプロの格闘技へと決めていたので、その前に少しでも厳しい体験を求め、陸上自衛隊に入った。

自衛隊では、右膝の後十字靭帯断裂と言う、スポーツする者にとって目の前が真っ暗になる様な事態に見舞われ、残念ながら一任期の2年をまっとうできず、除隊する事に。

プロになる夢はあきらめず、リハビリに専念した。

リハビリに通った東京警察病院。
その頃はU.W.Fのプロレスも第二期を向かえ、異種格闘技戦などで非常に盛り上がっていた。
自分もU.W.Fに入りたいと思い、怪我をする前まではスクワット700回、腕立て500回を朝、夕2回、毎日続けていた。

リハビリでも少しでも自分のモチベーションを上げようと、あこがれのU.W.FのTシャツを着て臨んでいた。

すると、担当のリハビリの主任の先生が
「U.W.F好きなの?」
と声を掛けてくれた。

この先生こそ、その後自分が入門する事になるシュートボクシングとU.W.Fのリングドクターをされていた先生だったのだ。

自分がU.W.F入門を希望している事をお話しすると、今度選手に話しておいてあげるよと言って下さった。

「じゃあ、U.W.F行く前にシュートボクシングやって鍛えておきなよ。」

と言う御紹介を頂いて、当時文京区の白山にあったシーザージムにお世話になる事になった。

その頃のシーザージムには、たまにU.W.Fの選手も練習に来ていたりした。
当時の人気女子プロレスの選手なども来ていた。

リハビリ室にU.W.F所属選手の山崎さん、中野さん、宮戸さんなどがリングドクターの先生を訪ねて来られた。
そんな時、先生は真っ先に自分を呼んで紹介して下さった。

時にはU.W.Fの試合にまで同行させて下さり、前田さんや高田さんとも直にお話をさせて下さった。
その頃に田村選手や船木選手も見ていた訳である。

U.W.Fもこれから大きく飛躍しようとしていた時であったので、入門審査は厳しく、実際の体力テストの前段階で書類選考があった。

身長が175cmに少々欠ける自分では、体格的なところですでにダメであったのだろう。
数回書類選考に落選し、もうダメだとあきらめた。

リングドクターの先生は
「シュート(シュートボクシング)で頑張ったらいいじゃないか。そこからまた何か開けるよ。」
と励まして下さった。

自分としてもシュートボクシングが面白くなってきたところであり、丁度良い転換期であった。

95kgから77kgまで4ヶ月で減量し、その後はアマチュアを経てプロへ行ったが、本来のお人よしの性格で、格闘を競技として行うのについていけなくなり、2戦したきりでやめてしまい、お世話になった方々には大変申し訳がないと、数年は自己嫌悪のネガティブな日々。

それから柳川宗家と出会い、二聖二天流に没頭できる様になり、ようやく自己の安定が得られる様になった。

若い頃とは違った形で、格闘技、武道に携わっているが、昨日のテレビで想い入れの強いい方たちが、今なお現役として試合をされている事に様々な触発を受けた。

今はもう、プロ並みの練習量や時間の確保など到底できるはずもなく、体を張った試合などもできる立場にないが、あらためて努力の必要性を感じた。

プロではないが、武道の有名人でもスポーツ格闘技の欠点を強く言う人もいるが、それでも第一線でギリギリまで自己を追い詰めた人たちである。
その存在だけで尊い事だ。

例え少しでも自分もプロの世界にいたので、あそこまで昇った方たちの凄みが理解できる。

言うは易く、行うは難し。

技術そのものよりも、重みや凄みのある人間に強く惹かれる。

そう思うと、柳川宗家は「技」「存在感」ともに持ち合わせた稀な方だと改めて感じる。

人は、人の「生き様」を観る。
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