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今回もまたB-FIELD代表の山下さんの日記で、強く共感を抱くものがありましたので、御本人承諾の上、原文掲載させて頂く事にしました。
今回のお題は「かけ合わせ」。
知識や技術のバラ売り、または寄せ集め、いいとこ取りなど、全てのジャンルにおいて起こり得る現象について語っておられます。
私も武道に関しては、この事に関して常々思うところがありまして、一貫して通った原理原則が無いと、
「何でもできる」
は
「何でも中途半端」
に陥ってしまうと考えております。
それでは、今回も面白くも洞察力に富んだ山下さんの文をお楽しみ下さい。
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2008/6/25「かけ合わせ論」
●世の中には「豆知識」のような“切り売りの知識”があります。
切り売りの知識には、気軽に耳をかたむけられるという利点があり、また知的好奇心を刺激してもらうのにも重宝します。
しかし、専門的な技術や理解を得るとなると豆知識だけではどうしても不足で、“体系だった知識”が必要になります。
●武術もしかりで、パッと見のカッコウや短絡的なコツ……つまり豆知識を集めてみても、なかなか“体系だった技術論”にはたどりつけません。
●ところが、その理屈がわからないと、“A流派のいいトコロとB流派のいいトコロをかけ合わせて「いいとこどり」の技をつくろう”などいうことを安直に考えてしまいます。
けれど、別の体系にある技は、別の「法則」からなりたっていますので、その法則を無視した“技のかけ合わせ”は決してうまくいかないのです。
●さて話は変わりますが、かけ合わせといえば、近縁の動物を配合して“すぐれた雑種”をつくり出すという方法が昔から知られています。
たとえば「ラバ」は、“ロバのオス”と“ウマのメス”をかけ合わせて生まれたハイブリッド(雑種)で、ロバの持久力とウマの瞬発力をかねそなえています。
●しかし残念ながら、この手のハイブリッドは、子孫を残す能力がほとんどないのです。
やはり「生命」においても、別体系や別法則のブレンドはとてもムズカしいのでしょうね。
●ちなみに、“ロバのメス”と“ウマのオス”をかけ合わせて生まれるハイブリッドを、「ヒニー」とか「バルドー」といいます。
実はこのヒニー、ロバの力不足とウマの気まぐれというマイナス面ばかりをうけついだ性質なのだとか。
●バルドーなんて、名前は非常にカッコイイのですけれど……その実態が「わるいとこどり」では目も当てられません。
●いろいろな流派を見聞して視野を広げることも大事ですが、くれぐれも“バルドーな武術”にはおちいりたくないものです。
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週末はいつも仕事の疲れをリセットする為に、様々な運動をします。
業種が鍼灸やマッサージを主体とする治療業務なので、どうしても前傾姿勢が多く、スポーツ選手に対するパートナーストレッチなども、かなり体を使います。
動きがあるけれど、どちらかと言えば一定の位置でじっとして、身体を固定する様な筋肉の使い方が多いです。
当流の特徴でもある「受動筋」の鍛錬にもなるのですが、所詮人体は消耗品です。
繰り返される同じ様な動作に、特定の部位が酷使される事になります。
どんなに効率的で、良い操作をしても運動量が過ぎれば疲労せざるを得ません。
土曜は自宅での患者さんの治療を行い、少し調整運動をして疲れを取る為、なるべく早く床につきます。
日曜はゆっくりとした朝をむかえ、子供と遊びながら自分の調整運動をします。
寝てやるもの、立ってやるもの、様々な体勢で調整運動をするのですが、その間、子供が上に乗ってきたり、体をよじ登ってきたり、髪の毛を引っ張ってきたりと色々としてくる訳です。
でも、その邪魔になる様な外力も全て利用してやろうと、自分の調整プラス外力のいなし方、受動筋力などほとんど何の運動をしているのか分からなくなりそうですが、まぁとにかく全て一緒にやってしまおうとしている訳です。
痛む古傷のある部位に特定した動きや、全身の感覚を取り戻す為の運動などを寝てやったり、起きてやったり。
ある程度ほぐれてきて、体が解放されてくると、少し重量物を使った動きをします。
チーシ、サーシ、鉄アレイ、ケトルベル、振り棒など、色々と変えて各関節に掛かる負荷の変化を味わいます。
その後、だんだんと武道空手の技術的な動きに移行していく訳です。
こうした週末の調整運動から始まる鍛錬は、それぞれの段階ごとに明確な目的を持たせています。
1、まずは仕事で凝り固まった体を解放します。
2、体のリセットが完了してからは、少し弱い部位の補強を兼ねつつ、さらに細かい操作の感覚を追っていきます。
3、だいぶ体の感覚が高まってきたところで、武道空手の具体的な動きへと進みます。
3の段階までいくと、後はやるだけと言う事になりますが、自分が大事にしているのは、その前の段階で体の感覚を起こしてやる事です。
当流の様々な基本原理である「鞭身」や「沈身(抜き・落下)」、「受動筋力(剛体化)」、「腰の切り戻し」、そして「正中線」などの感覚を出す為には、いきなり技や基本稽古を行うのは不適であると自分は考えるからです。
宗家は基本とも言えない様な、基本原理を体感させる為のちょっとした体操、動きなどを様々考案され、それらはあまり紹介されていませんが、自分はこうしたものの方が、非常に大事であると思っています。
以外にも組手などで実感される効果はこうした宗家考案の体操(?)によるものが多かった気がします。
基本は極力、シンプルである方が良いのでしょう。
大事な理は様々あり、意識すべき身体部位も多いので、シンプルな動作の中で確認し、意識との統合を図るのです。
この時に、動作そのものが複雑であったら、意識が散漫になり、体得するのに非常に無駄が生じる事でしょう。
この様な「基本の基本」とも言うべき動作を、個人の目標に合わせて行う事が優先されなければなりません。
上記の基本原理の感覚と意識、意志、体などが、全て一致した同一の方向に向かわなければ、一つの技もできません。
私の場合、様々な鍛錬具を用いる訳ですが、宗家は鍛錬具については、私ほどあれこれと落ち着き無くするのでなく、「振り棒」または「鍛錬棒」と呼ばれる極太の木刀を愛用されていました。
私は琉球古武術も弊習している為、「六尺棒」の他、「サイ」や「トンファー」、「鉄甲」、「ヌンチャク」など色々な武器を用いて、身体への負荷の変化と、軽く、速く扱う為の操作を思考錯誤しています。
私の様に、感性に乏しく落ち着きの無い者は、色々な事をやって一つに集約していく事が、今のところ一番良い様に感じます。
動作と意識、意志の統合は、武道・武術にとって最も重要なところです。
この点について非常に有効な鍛錬手段を用いているのが、居合や剣術など様々な得物を扱う日本伝統武術です。
道具を扱うと言う事によって、厳しい身体意識を構築していくのです。
道具を持った時点で、道具が邪魔になり、身体の動きを様々に制限するのです。
これをまた対人で行うのですから、相当な厳しさを要求されます。
この事については、B-FIELD代表の山下さんが通われている某日本武術の道場に、私も2年ほど通わせて頂いた事もあり、少い経験ですが感じたところです。
また、太極拳や意拳を代表する中国武術の内家拳の流れも非常に洗練された稽古法を持っていると思います。
武器の練習もありますが、「内功」と呼ばれる主に無手で行う、意識と身体操作の統合の鍛錬法はやればやるほど深い技術を持たらすものと思われます。
私は中国武術にも大変興味を持っていた為、以前シュートボクシングのプロとして活動していた頃、中国から来られた兄弟で武術を指導されている先生方にも、同時期に教えて頂いていた事があります。
こちらでは弟の先生は「気功」と「太極拳」、お兄さんの先生は弟さんより武術家らしい気質の方で、「地功拳」(地躺拳)を指導されていました。
アクロバティックで派手なイメージの地功拳でしたが、実際は型も対人の用法も、映画などで見た表演用のそれと違い、地味で接近戦も多く、非常に怖い技術で、用法を教わっている時、何度も
「わっ! あっっぶないなぁ〜・・・・!」
と心の中で思っておりました。
懐かしい思い出です。
話がそれてしまいましたが、中国武術の内功の鍛錬法は身体の動きと意識、意志を統合する為の、シンプルでいて奥深いものです。
最終的に持っていきたいレベルは、身体操作時における感覚と意識、意志の統合を意識した鍛錬。
当流においても、正中線や沈身、鞭身など、必要な理を体得する為、その感覚を磨かなければなりません。
・感覚を得る為の稽古法。(体感)
・感覚を磨く為の稽古法。(練磨)
・感覚を活かす為の稽古法。(実践)
この三段階を意識して稽古していきたいと思っています。
本日、午前の患者さんを治療し、娘の授業参観へ。
ご近所の同級生のママさんから、ご主人が肺気種で入院されたとの話をうかがった。
このご主人、Aさんは私の2才上で、私の姉と同級生であったので、よく知っている方。
そんなAさんは、御子息と一緒に某フルコンタクト空手の道場に通っておられ、茶帯まで取得されていたそうだ。
しかし、今回の病にて、激しい運動はもうできない事となったそうだ。
緊急に手術をし、現在集中治療の段階らしい。
ご本人は空手の稽古を相当楽しみにしていたらしいので、そのショックたるや他人事と思えない。
肺気腫は進行性のもので、一旦発病したら止める事はできず、酸素と二酸化炭素などのガス交換率が悪くなるため、ちょっとした動作でも息が苦しくなる事もあるのだそうだ。
現代医学的には最大の原因は「喫煙」だそうだが、私としては運動の仕方や体質なども大いに関わっている事と思う。
Aさんは喫煙はされない。
喫煙も肺の内部に呼吸を阻害する様な物質を入れている訳だが、東洋の伝統医学では、打撲などの外傷性の「瘀血」(こちらのブログの瘀血論を御参照下さい)なども、その場の筋、腱、靭帯などの組織に残留し、すべての循環を妨げる大きな原因となっていると考えられる。
つまり、フルコンタクト空手に付き物の、胸部への打撃が集中し易いと言う事を永年続けたり、回復力の無い状態やその様な体質の者が無理をして行えば、胸部瘀血による症状が激症化する可能性もあると言う事だ。
胸郭は骨と筋肉に守られている為、案外無茶をし易い。
それなりの鍛錬と慣れにより、打撃に対しての耐性が向上する。
しかし、耐えられはしても、肉体的にダメージが無いと言う訳ではない。
このAさんの場合も、全てがその運動の仕方によるものとする訳ではないが、若いとは言えない年齢になってから、身体を徒に傷つける様な稽古法はすべきではないと考えるのである。
これは無論、その道のプロでも同様であって、自身の体を破壊する様な事が動ける寿命を短くし、指導もろくにできないとなれば、こんなにつまらない事はないだろうと思うのだ。
武道の鍛錬においては、肉体に負荷を掛けるのは必要な事ではあるが、その方法については、よくよく検討して行うべきだと思うのである。
歳をとると、思いもしない病気や障害に突然遭遇する事もあるのを、よく弁えておくべきだろう。
正しい稽古法で、末永く武道に親しみたいものである。
私も医療関係の仕事柄、その様な稽古法を少しでも考案できればと、あらためて気を引き締められた出来事であった。
前に津本陽さんの小説で柳生兵庫介だったと思うが、その中に無言の行なるものについて書いてあった。
免許を得て、経験も積んで凱旋帰国し、最後の総仕上げに神社(?)に千日こもって1人稽古を慣行すると言うもの。
その際、他人と一切会わず、口もきかず、完全なる1人の世界に没頭すると言うのだ。
これは精神の内圧が高まり、最高度に己が研ぎ澄まされる事であろう。
見たり聞いたりした事を、すぐに他人に喋ったりすると、自分には何にも残らない気がする。
得た知識や経験を、人に言わず、本当に自分が納得いくまで、自己の内部で熟成させ、完全に自分の物として、初めて他人に伝えられると思うのである。
最近、自分はアウトプットばかりで、インプットが少ない。
これは東洋医学でも、伝統武道でも、極めて悪しき事である。
この様にブログなどを書いているのも、アウトプットになってしまうのだが、このブログは二聖二天流の情報公開と共に、木田実自身の頭の中そのものなので、ある程度はそのまま出していく。
仕事や家庭に費やす時間は、人として最低限の事、当たり前の事ではあるが、稽古量、勉強量がなかなか思う様にならない時期に今ある様だ。
仕事も武道も、アウトプットが続く。
そうなると、自分の中に蓄積されているものが枯渇してくる。
そんな時、心身は非常に弱くなる。
「志」が無くなるのである。
強い意志とは、日々の鍛錬があってこそ、自己の内部に居座るもの。
100%自分の世界を自分の中に築き上げたい。
自分も無いのに、他者との交流などできる訳が無い。
趣味だろうが、ビジネスだろうが、精力的な者は他者との交流も精力的である。
年齢的に社会的な役割や、家庭での役割などが増えてきて、自分の時間が思う様に取れない。
今までのスランプなど、現在の状況に比べれば、何でもない事に気付く。
自分に集中したい。
時間の制約。
体力の制約。
やれる事はほんのわずか。
だからこそ精選して行う。
しばらくは無言の行でもやっているつもりでいこう。
だが、本当は自己の内部、外界の状況など関係なく思い、その場その場で感じたままにやれる事を淡々とこなすのが最善である。
そう分かってはいるのだが、それでもあまりに時間が無さ過ぎる・・・・。
信と疑。
相反するものだが、精神が集中すると言う点においては、双方とも重要な効果がある様に思う。
先日、勤務先の治療院の副院長が、介護予防の体操教室にて「気功・経絡体操」を行った時の話。
私が彼にさらっと教えた24式太極拳の動作と、気功の動き、それに経絡の流れなどを応用して(副院長自身、鍼灸師なので)行ったもの。
副院長はボクササイズやヨガを応用した体操教室を担当していたが、東洋的運動はほぼ経験無し。
だが、参加者の中から続々と、
「先生、手からすごい汗が出てきました!」
とか、また参加者同士で背中に手をかざして気を感じると言う場面では、参加者同士では感じなかった人が、副院長が手をかざすと、
「ああっ!!」
と気を感じて驚く人など様々に効果(?)が見られた様子。
治療院に戻ってきた副院長が、
「俺のみたいな即興の気功とかで、あんなになっちゃっていいのかなぁ・・・・。」
とつぶやいていたのだが、自分は確信を持って、
「それは絶対に、あなたの実力でしょう。
うそでも何でもないよ、絶対。」
と答えた。
その訳は、その道に没頭し過ぎたり、詳しすぎたり、また考え過ぎて神経質になると、逆にまったく効果が無くなってしまう事がよくあるからである。
前にも書いたが、仏教で言う「声聞・縁覚」と言う限りなく仏に近い段階の者が、最も仏を悟り難い、と言う話しと同様に思う。
彼みたいに、気功を完全に信じていた訳ではなく、それに対する依存心も、考え過ぎる神経質さもなかった状態は、人間の本来持った自然な調和の取れた状態でもあるのだ。
「集中する」と言う事は、考え過ぎる事でも神経質になる事でもない。
冷静でいて穏やかな心境と言うのは、どの道においても「極意」とされるところなのではないか。
「ビギナーズ・ラック」
と言う言葉がある。
これはそうした初心者の素直で、偏りの無い心境が為しうる最高のパフォーマンスを言ったものであろう。
「信じる」と言う事はとても重要だが、過ぎれば現実を見失い、自らを危険にさらす結果にもなる。
これは武道を修めようとする者にとって、非常に重要な事である。
武道を修めるにあたり、自分はよく「純粋培養」と「雑種交配」と言う事を考えている。
昔日の武道家も、純粋培養され免許を得た後に、雑種交配させる為に武者修行に出ていたのである。
生物学的にも、多様なDNAを持ち合わせていた方が、多様な自然環境で生き残れる可能性が高まる事と同様に思う。
自分も副院長の体操教室の事例から、改めてその事について思いを新たにした。
自分が所属する流派、師を尊敬し、信じる事は当たり前だが、
「本当に、この技術で、この稽古法で、自分は強くなれるのだろうか?」
「この流派の技術で、あの様な者、あの様な技術、あの様な状況で、本当に通用するのだろうか?」
一辺疑ってみる事が大事だと思う。
妄信的になっている自分が見える事がある。
結局は“自分ができるか?”と言う、この一つの事に結果を求めなければならないからである。
柳川宗家御自身も、
「師への過剰な憧れは、成長を妨げる。」
と言われている。
宗家が崇拝する武蔵でさえ、その著書「五輪書」の中で、
「ここ(五輪書)に書いてある事は、自分自身が書いたものと思って、疑うところなく、そのとおりに精進して稽古せよ。」
と言う言葉を書き残しているが、これも勘違いしてはならず、自分自身で常日頃検証してこそのものだと思うのである。
伝統派武道に身を置く者で、よく「スポーツ武道」や「競技格闘技」の粗探し的な評価をする人がいる(伝統派医学界でも手厳しく現代医学を批判する人もいる)。
その団体独自の様々なルールに制約されているとは言え、自己の肉体を限界にまで追い込んで、
「仮想の実戦」
を行う人たちを評価するには、自分もそうした「痛み」を味わった者でなければならないと思うのである。
理論や理屈など、スポーツ全般は口で言うほど生易しいものではない。
それが分かるのは、自分もある程度の競技格闘技経験があるからで、それは頭でっかちになり易い自分にとって、非常に良い経験であったと思う。
全てのジャンルに対し、その存在する理由と、起ち上がった経緯とどの様な必要性があったのか、考えてみるべきである。
仮にある伝統武術の流派が、実際にスポーツ・競技格闘技より技術が優れていたとしよう。
しかし、それを世の中にどう理解してもらうと言うのだ。
手合わせもせず、試合もせず。
己の利点を紹介するのはいい。
他との比較を紹介するのもいい。
だが、少なくとも公には、他を批判する事だけは無い様にありたい。
いずれにしても、「伝統」と言うからには主に「昔の」稽古体系であると認識しなければならない。
それは戦争や刃傷沙汰の危険が日常であった時代の話。
実戦や危険と言うものに対しての認識や理解が、現代人とはけた違いであったろう。
そんな時代の稽古法だけで、現代において成果を出そうとするのもどうかと思う。
時代をつないでこそ、伝統である。
自分としては、技術はそのままでも、検証法などは雑種交配させるべきであると考えるのである。
自分が没頭している事を、一度疑ってみる事。
執着し過ぎた自分の精神状態を一度解き放って、正しく見てみる事。
武蔵はこれを五輪書の中で
「四つ手をはなす事」
として紹介している。
絶対的で、不変な真理、自然の法則への拘り。
心を開き、他を広く見渡し、冷静に自分の位置を正しくみる姿勢。
信と疑。
開いた心と、決して変えない硬い心。
相反するものが不可欠なのである。
治療院に来てくれているある老婦人(と呼びたくなる様なおしゃれなおばあちゃん)から聞いた話。
この方、もともと建築の設計に携わられており、趣味は古い建造物を見て回る事で、先日も治療しながら、そんな話をした。
「私、古民家とか見て歩くの大好きなのよね。作りもすごく考えられていて、知恵がたくさん詰まっているのよね。」
との事。
木造の家屋は、湿気を吸ったり吐いたりして、自然環境によって形状を変える。
作りにある程度のアソビがあり柔軟性を持つ為、揺れにも強いのだそうだ。
自然石や木を使ったものが、近代的な作りのものよりも案外長持ちするとは聞いた事がある。
しかし、この後に聞いた事は自分は初耳だった。
「家を作るにも、いろんな木があるでしょ。あれもその土地の木を使わなくちゃだめなのよ。それが一番その土地に合った家になるから長持ちするのよ。」
と老婦人。
そうなんだ!!
東洋医学などで「身土不二」と言う言葉があるが、これは
「その土地に住むのに最適な体を作るには、その土地で取れた物を食べる。」
と言う事だと理解していたが、
衣、食、住
の三つ全てに対して言える事なのだろうと目からうろこであった。
いやぁこれまた勉強になりました。
お年寄りの蓄積した知恵は本当にありがたい。
現代では衣食住を身の回りの物でまかなうのは困難であるが、なるべくそうした意識は持ち続けたいものだなあ。
ふと宗家が以前言われた事を思い出した。
「海外に長くいると、日本の感性がどうしても薄くなっていくのはあるね。」
と。
宗家は年単位での海外滞在こそないが、今までに様々な国と空手で交流をされ続けている。
海外での長期滞在をすれば、やはり目にするもの、言葉、様々な異文化の中にいれば、影響を受けないはずがない。
武道にとっての「身土不二」もあるのかもしれない。
自分のルーツを良く知り、それを守り、その分を超えないと言う感覚が非常に重要だと思った。
しかし、武道を修めるにあたり、それとは逆の要素も必要である。
自分の長所短所をよく知り、向上していく為には、広く外界へと開かれた目と経験を持たなければならない。
昔の武道家だって、一流派で純粋培養されそこそこの段階に達したら、「武者修行」に行くのが当たり前だったろう。
そうして、本当に強くなって一流派を継承、発展さすに至るのだろう。
宗家の技は、自然の理ゆえに誰もが手にするチャンスがある。
だが、本当に難しい。
本当に優れたものは、万人が身につける事は難しいのは当然である。
また、個人の目的意識と言う要素もあるからだ。
これからの在り方を色々と考えさせられたが、結局は自分が向上しない限り何も為せないと言う原点を見つめ直すに至った。
何事も知り過ぎる、分かり過ぎると言うのも不自由なものだと思う。
自ら忙しない、苛立った気持ちにしてしまう。
確かこれ、仏教で「声聞・縁覚」って言ったと思ったなぁ。
なんか物事が分かってきた段階が、最も迷い易いって意味だったと思うけど…。
多くの事で煩わしい状態になるのも、自分でそうしていると言う事かな。
見猿、聞か猿、言わ猿じゃないが、本当に自分にとって有益な状態にもっていく様、心掛けたいものだ。
ぼうっとしている様でも災いに遭いにくい人がいたりする。
一番大切なのは、明るい気持ち、リラックスした気持ち、今への感謝、他者への思いやりなどの、一言で言えば「幸福感」なのではないか。
普通に生きてるだけで苦労は付き物であるなら、それ以上に苦労をしょい込む必要はないだろうと思ったりする。
自分のスピードで生きるとは、そんな事で得られるのかもしれない。
仕事や家庭、武道の鍛練などで最近はあまりゆとりが無いけれど、そんな時こそうまくバランスをとっていきたい。
ふと、寝る前にそう思った。
先日、ある番組で楽天の山崎選手が「コンニャク打法」で好調だと言う事を言っていたのを見た。
もっと若い頃からこの打法をやっておけば良かったと言っていた。
山崎選手いわく、
「止まっているものを動かすためには大きな力がいりますよね。
例えば100メートルを走るときに、ヨーイドンでスタートする場合と、
助走をつけてきて、そのままスタートする場合とどちらが有利かという話です。」
ん?
これって、武道空手の原理そのものじゃないか?
ジャマイカのアサファ・パウエルの「エクスプローシブ・スタート」についても以前語りましたが、また有名スポーツ選手をダシにして、手前ミソな事ばっかり言ってるとお思いでしょうが、本当にそうなんです。
「居着かない」
「一調子」
「仮置き」(前進させた足の操作)
「膝の抜きで腰から出る」
などなど、武道空手の原則がそのままコンニャク打法で山崎選手が言われたものそのままなんです。
これは山崎選手が言われるとおり、「ヨーイドン」で出るのではなく、既に助走をつけてきたかの様な勢いを止まった姿勢で行うのであるが、その姿勢を「浮身」(いつでも沈身を行える体勢)や「正中線のしなり」で作っていく。
床を蹴った反作用で推進力を得るのではなく(必要最低限は蹴りますが)、「抜き」や「沈身」と呼ばれる身体操作で、自然落下の加速度を十二分に活用する。
床からの反作用が起きてから推進力が働き始めるのと違って、ただ「落ちる」だけなのが早い(速い)理由。
このコンニャク打法は脱力する事を重点が置かれた技術だそうです。
脱力が核となっている打法は、他にもイチロー選手の「振り子打法」、「片手打法」や「フラミンゴ打法」などもそうじゃないだろうか。
山崎選手が打った瞬間の、大腿部と骨盤の動きがイチロー選手とよく似ているなぁ、と感じてしまいました。
股関節がゆるゆるになっているのか、
”前足を着地させてから膝が伸びきって突っ張った感じが無く、内股になりながら骨盤だけが鋭く回転している”
みたいに見える。
いろんなところで、武道空手の原理とよく似たものを見かけたり、聞いたりするが、人体の自然で効率良い操作を追及したら、自然とそうなるのは不思議じゃないですね。
武道空手の場合、これらの技術を「正中線」と言う一つのものに集約して追求するのですが、この捕らえ方が難解でした。
自分の場合、色んな事をやったが、役に立ったのは2つあります。
一つ目は、仕事にもなっている「医学的な知識」。
二つ目は、鍼灸の師から教わった太極拳、意拳など中国武術の「内功の感覚」。
内功から得た身体の感覚で、医学的に自己の身体の重量のバランスや、身体各部位の動きの軸などを追っていけた事が無ければ、ここまで(と言っても大した事ないが)これなかったと思うんです。
人に伝えるのにも、かなり役立っているのも確かな様な気がします。
現在、仕事の一環として行っている介護予防を目的とした「健康体操教室」で、年配の方々への姿勢の矯正や、関節の正しい動きなどを伝えるのが、実にやり易い。
脱力するには、コツがある。
まずは、
「ゆっくりやる事」。
ゆっくりやる事は「そーっとやる事」。
そーっとやれば、自ずと最小限の力となり、武道空手の大原則の一つでもある
「受動筋力」
を理解し易くなる事にもつながります。
受動筋力主体の動きになれば、姿勢が悪い時には全身の「抗重力筋」に違和感を感じる。
力が入ると、楽じゃないからすぐに分かる。
まずそう言う状態を作って動く練習をするんですね。
また、何度も言ってますが、自分自身がこれも付け加えれば良いのではないかと思うものに、
「リズム」と「反復性」
があります。
自分はストリートダンスの経験があるから、何となく体で分かっていましたが、最近は武道空手の習得には、絶対に不可欠だと思うのです。
ゆっくりと伸び伸びとやっている様でも、スタートの時点で姿勢に力みがあれば、それでもう0点。
かと言って、止まったところから始めるには、力みが取れにくいから何度やっても、上手くいかない事が多い。
山崎選手のコメントのとおり、止まっているものを動かすには大きな力がいります。
だから、「反復性」を持たせて常に動き続けるのです。
人間はリズムをつけてやると、自然と力みが消えるものなので、ある動作を一定のリズムをもって繰り返す事が、「抜き」や「沈身」を覚え易い条件だと思うのです。
久しぶりに自分でつけた梅酒を飲んだ。
杯に氷を一個入れて、ちょっとだけ。
平成15年5月28日と書いてあるから、5年前のちょうど今頃につけたものだなぁ。
2年目位じゃ焼酎の味がきつくて、あまり飲む気がしなかったが、なかなかいい味になっていた。
明日は娘の運動会。
小学校初めての運動会だし、張り切らざるを得ない。
こちらとしても、ビデオ係りから老親の席取り順番待ちとかで、こき使われそう。
ビデオからのぞいているより、目の前の姿を追っていたいんだけどね。
自分が幼稚園や小学校の頃なんか、ビデオなんかなかったし、うちの親父が張り切って買ってしまった8mm撮影機も当時としては、持っている方が少なかったと思う。
自分の時は、撮影されてるのは入場シーンと障害物競走のゴールシーンだけ。
今は何でもかんでも記録に残し過ぎて、写真やらビデオやら整理つかないのが、山ほどあるよ。
ま、子供が成長するにつれて撮影するのも減っていくと思うけど。
今日は自宅鍼灸院の患者さんもなかったので、ゆっくりと練習ができた。
室内で、形の稽古を繰り返す。
仕事の疲れで、形や背中にぼやけた感じの痛みがある。
これは偏った動きで溜まった疲労だから、武道空手で全身の自然な動きをすれば(初心の頃は極めて不自然だと思ったが)良いだろうし、その様な疲れによって空手に与える悪影響を除去しなければと思った。
古傷を抱える左右の肩も、正しい基本の動きをすると、しっかりしてくる。
関節が正しい位置にきたと言う感じ。
正しい位置に関節があると、加速度的な動きに充分耐えられるので、身体の方が遠慮なく加速度を上げてくる。
自分でも、あれ結構速く動けるもんだなぁ、などと感じる。
やっぱり武道空手の動きの為に、あるのが武道空手の基本なんだね。
これをサーシや琉球古武術の「鉄甲」などを持ってやったら、ちょうどいい負荷の掛かり方していいね。
やっぱり、正しく運動すると言うのは、まず正しい動きを覚えて、正しい運動器具にて行うのがいい。
動きも器具も人体の自然な動きに合った物でなければいけないな。
最近は器具の方が人体に歩み寄ろうとするばっかりだけど、伝統的でシンプルな鍛錬具が一番使い勝手がいいと思う。
最近、若い患者さんで、肩関節が痛いと言う人が多くてね。
そんな人たちには、筋肉をほぐす事は当然の事として、自分の場合は関節を正しい位置に持ってくる、正しい動き方を覚えてもらう、と言う治療の仕方をしている。
練習を一通り終えてから、どっと疲れが出たのか、午後2時から7時半まで眠ってしまった。
今週は疲れてたにも関わらず、行き着けのソウルバーに2回も行ってしまった。
水曜は地元のお店、金曜は帰宅途中に両国のお店へ。
酒は大して強くないが、帰って早く寝ればいいのに、2回も行ってしまったのは、精神的に充電したくてたまらない気分だったから。
好きな音楽がかかってるから、いつも1人で飲みに行く。
と言うか、相当SOULミュージックが好きな人以外は1人が楽かも。
いやぁ疲れてるねぇ、オレ。
もっと遊んだ方がいいんじゃない?
いつも通勤途中にイヤホンで聞くだけじゃね。
大音量で聞きたいんですよ、ソウルミュージックは!
んでやっぱり夜にね。
それに店内の雰囲気。
暗い中にブラックライトや蛍光色のネオン管の光もの。
DJが回すターンテーブル。
多分、好きな人ならこれらのキーワード聞いただけでテンション上がるはず(笑)
カウンターで1人で格好つけて飲んでたら、お通しで出されたミックスナッツのピスタチオをカラごと口に入れちゃって
「ガリッ!!」
カッコ悪いです。
皆さん、ミックスナッツは必ず確認してから食べましょう!
さっき久しぶりに、歌手の大澤誉志幸さんをテレビで見た。
何年か活動停止して、またシンガーとして活動再会されたとの事。
「そして僕は途方に暮れる」
これ懐かしいねぇ。
いい歌はいつ聴いてもいいです。
色々とその頃の思い出が一気によみがえるしね。
大澤さんが昔は忙しく、周りに追われていた様なところもあったけど、そろそろ“自分のスピード”でやってみたい、と言われていたのが非常に印象的だった。
う〜ん、自分のスピードで生きてみたいねぇ。
でもそれは頑張った人が言える事で、自分の場合はそんな事言うにはまだ早いのか。
家庭持って、普通に仕事してたら、そんな悠長な事言ってられないしなぁ。
自分のペースばかりでは生きてはゆけぬよ。
一芸に秀でた人たちは、様々なものを犠牲にしてるしな。
しかし、経済優先の現代は、ちと全てのスピードが速過ぎんじゃないかな。
いつも理性ばかりを強いられて、人々の感性が解放される時間と心のゆとりがあまりにも少ない様に思うよ。
せめて四季の行事位は、家族で楽しめる生活がしたいね。
花見や節分、地域の祭り、盆踊りに虫取り、月見、雪見なんかもいいし。
感性が殺されてばっかりだから、精神的に荒んできちゃうのかな。
生きる為に働くんだけど、働く為に生きてるみたいになっちゃってないかな。
こんな中で、仕事や家庭持ちながら武道の稽古されてる方もいる。
尊敬です。
自分の場合、もっと稽古したいんだけどそれも難しく、オレ頑張れてるのかな?と思ったりする事しょっちゅうで・・・。
しかし!
小さい子供を抱えている主婦に言わせれば、自分のスピードで生きるなんてできっこないから。
いつも時間に追われるだろうし、本当に大変であろうとお察しします。
だから女性は強いのかもね。
偉大なる母たち!
妻にも感謝だな。
明日ハーゲン○ッツでも買ってあげよう。
年取った母にも、もう少し長生きして欲しい。
勿論、親父も。
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