武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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自分の役割と志

宗家、及びイギリス行き第一陣のメンバーはもう出発しただろうか。

自分も来年こそはまた参加したい。

今月下旬には無事帰国される事をお祈りして・・・。
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今日は久しぶりに充実した練習ができた。

いい稽古ができれば、自ずと感じる事も多く、稽古日誌の文も多くなる(苦笑)。

仕事の方も、要の治療業務だけでなく、運営の為にあらゆる業務に取り組まなければならならず、頭の方もなかなか武道のスイッチが入りにくい日々を過ごしている。

今日は自宅治療院の患者さんが夕方からのお1人だけなので、時間にゆとりがある。
しかも絶好のいい天気。
子供たちなら、プールで遊んでもいい様な陽気である。

ちょっと出遅れたツクツクボウシが遠くで鳴いている。
もう9月の13日だぞ・・・。
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指圧や鍼灸、マッサージなどの業務が続くと、どうしても偏った体の使い方になる。
鍼灸師でも、日本古流武術や中国武術、またその他の身体操作の要素が濃い運動にはまる人は多いのは、やはりどうしても偏った使い方になる中で、体のリセットの必要性を感じるからだろう。

リセットだけでなく、治療の為には自分自身の身体感覚が敏感なのが良いに決まっている。
その開発法としても、取り組んでいるのだろう。

自分の場合、治療を行う事よりも武道が先にあったので、その必要性は当然だった。

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自分の稽古は、そんな偏った違和感を感じる体をまずリセットする事から始める。
鈍感な身体感覚で稽古したところで、変なクセが付いてしまうか、体を痛めるのが落ちである。

古傷を抱える両肩の違和感を無くす事からスタート。

これは意拳や太気拳で有名な「立禅」や中国武術全般にある鍛錬法の「站椿功」と呼ばれるものに近い感覚で行う。

立つ、腕を上げる、などの行為を最小限の力で、最も楽に行える様な動作を求める。

こうすると、こわばった両肩の関節は伸びていき(伸筋主動型の動作と言われた先哲あり)、その上筋肉が熱くなり、膨張感を得る。

少し動かすと痛かったりするのも、これをしばらくやっていると、相当な激しい動きも力強く行えるのだ。

試しに、重めのチーシや極太の1mほどの鉄筋を片手で振ってみる。
8kgのケトルベルを様々な角度にゆっくりと振ってみる。

何の問題も無い。
自分でもこんなに変わるものかと感心してしまう。

こうした鍛錬に習熟した武術家たちは相当充実した身体を持っている事だろう。

具体的に言うと、「立禅・站椿的」な感覚で行うのは空手の形や基本の動作の一部である。
その時に体が欲した動きをその場で選択して行っている。

「立禅・站椿的な」と言うところで断っておきたい事。
あくまで太気拳や中国武術のそれ、そのものではないと言う事。
それらの流儀を専攻している訳ではないので、それに近いとも言えない。

あくまで「〜的な」、「〜の様な」としか言えない。

それは上記の中国伝統武術に対する敬意からである。
専門家でもない外野が、軽々しくその中核となる鍛錬法について語る事は、これ以上無い無礼になってしまうからだ。
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自分の鍼灸の師匠が、中国武術、特に内家拳を長年修練している。
意拳、太極拳、通背拳などを続けておられ、毎日の治療業務を精力的にこなし、鍛錬も毎日必ず行うのである。

自分はその師匠に意拳、太極拳などの手ほどきを受けた。
師匠の武術の師匠は、米国在住の中国の老師である。

中国武術、特に内家拳の技術には「気」と言う概念が一貫しており、それは同じく中国を発祥とする鍼灸治療とまったく同じである。
双方とも「道家思想」が根底にあるからだ。
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さて、気功、内功的鍛錬の後、武道的筋トレに入り、琉球古武術の棒を主とした武器術で体の感覚の基準となるものを、道具を利用して確認していく。

その後、巻きワラ等の打ち物の稽古、そこから、武道空手の基本動作や形などで、細かい部分を修正していく。

そして軽く連続ジャンプをしたり、家の近くの川べりをジョギングする。
軽い連続した全身運動は全体の動きのリズムと協調性、筋力のバランスと整える。

最後にまた気功、站椿的な感覚のゆっくりとした動きで、形や基本動作を行う。
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以上の様な手順で自分の稽古は進んでいくのだが、ここで気が付いた自分は「混血児」の様な存在である事。

日本武道と中国武術の混血児。

現代トレーニングと伝統的鍛錬法の混血児。

どちらの要素も取り入れていかないと、自分の身体が納得しないのだから仕方がない。

柳川宗家が言われる「一人一流」。
個人個人がそれぞれ持った個性(体格や性格)に則った方法でなければ、高度なものは得る事が難しいと言う事だ。

宗家は、それを個性の開花と言ったのであろう。
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武道空手の技術の核となる「理」を体得する為の体操などを工夫する。

特にこの部分に己の個性を強く感じる。

今までも何度もこの場で書いてきた事だが、宗家の何気無い簡単な、理を体得する為の体操法に最も着目してきた。

そこに柳川空手と呼ばれてきた特異な(?)武道空手のエッセンスが凝縮されていると感じているからである。

それらの体操を「二聖二天流操法」、「武道空手操法」などと呼ぶ事にしよう。
長いので(笑)以下、単に「操法」としてみる。


かねてより考えていた事だが、万事において、歳をとればとるほど、やるべき事は少ない方が良い、またその様になっていくべきだと思っている。

今でさえ、なかなか時間がとれず、たくさんある形の内、きちんと稽古できているのは数種類のみである。

宗家が開発された「操法」も、そんな数ある形の中の動作からの極意の一つを抽出したものである。
それらがいくつかある訳だ。

そう考えると、そんなにたくさんの形は必要無いのではないかと、どうしても思ってしまうのである。

空手の形や、その伝承の系譜、歴史など、不明な点も多く、空手と言う武道があまりにも懐が広すぎる武道だと思わざるを得ない。

空手に限らず、日本や中国の歴史上の名人、達人たちにまつわる話は、いろんな事をやって、最後にシンプルな技術に行き着く事が多い。

一刀流の「伊藤一刀斎」、無住心剣術の「真里谷円四郎」、半歩崩拳の「郭雲深」、意拳の「王郷斎」などなど・・・・(敬称略)。

自分は、柳川宗家もその様な、煩雑な体系のものをシンプル化させた達人の一人であると認識している。

先哲の遺産である流儀の体系に逆らう事は、学ぶ者の姿勢として良くない事であるが、わが師が工夫に工夫を重ね編纂しつつあるもので、技術としては完成されてはいるが、稽古体系としてはまだまだ進化発展の余地を残すものだと思われる為、自分はそこの部分を開発していきたいと思うものである。

なぜならそれは空手と言う武術自体にある、懐が広過ぎるが故の伝承の曖昧さからである。

現代派、古流派、フルコン派、寸止め派・・・。
空手とさえ名乗れば、技術の全てがタイ式ボクシングの様なものさえある。

空手って何?
非常に迷いの多い武術・格闘技の一種である。

それがいい悪いとかを思う心は無い。
一生懸命やっている方たちは皆思いは同じである。
自分もかつては、フルコン空手、シュートボクシングをやっていた身である。

自分がしたいのは、伝統的、と言うより、柳川流、柳川宗家が言われる空手、二聖二天流の技術を持った空手を追求したいだけである。

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「行間を読め。」
と言う言葉がある。

書物はその一行一行を読むだけでなく、自分自身の現実に照らし合わせて、その書物が言わんとしている事を認識し活用せよ、と言う事だろう。

また佐藤一斎の言志四録には、「無字の書を読め」とある。
書いていない事を自ら知る事の大切さを言ったものだろう。

全ての技術、知識、経験などは「自得」するしかないのだ。

いくら師匠に質問しても、常に自分が納得できる様な答えが返ってくる訳ではない。

自分の答えは自分で探す。
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そしてその自得した武道空手の技術は、「組手」その他の対人練習によってしかその是非を確認できない。

対人稽古の無い武道、組手稽古の無い武道の流儀もあるが、それらの流儀はそれぞれ目指すところが違う訳で、これはあくまで
「自分が理想とする武道」
と言う事に限定した考えである事。

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今ある二聖二天流の稽古体系の発展のために、自分ができる事をやっていきたい。

またしても言志四録から佐藤一斎の言葉だが、

「志は師に譲らず。また古人に譲らずして可なり。」

と言う言葉の様に、こころざしは師匠にも昔日の先達にも負けないぞ、新たに開拓していくぞ、と言う位の強い気持ちを持って、臨むべきだと思うのである。
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合理主義と人の想い

普段から武道空手や伝統医学に関して、修得方法は常に合理的でないといけない
と考えている。

しかし、合理的にと考える中で、何か欠けている様な気がしていた。

どうも感情や想いの部分が、もっと入ってこないと、モチベーションも上がらな
い気がするのだ。

これは仕事でも言える事だと思う。

仕事だからまずは合理的、効率的でなければならないが、それが過ぎると、仕事
の質も下がるのではないだろうか。

全ては人間がやる事。
一見、無駄とも思える事でも人が生き生きとした生活を維持するのに欠かせないものがある。

「水清ければ魚住まず」
と言う。

あまりきちんとやりすぎると、感情を持つものとして、居心地の悪さを感じてしまう。

合理的とは正反対の、人の感情をもみないと総合的にいいものにはならない。

人は人の想いに引きつけられる。

これは年齢を追うごとにひしひしと感じている。

基本の理解

今日はのんびり娘の宿題をみました。

国語の音読や算数の足し算など。

特に今、自分が当たり前に使っている日本語。
これについて、いろいろ聞かれると、正直なんで分からないのかが、こちらが分
からない。

小1の勉強なので、基本の基本なんですが、初めて学ぶ者にとっては分からない
とこだらけなのは当然でしょう。

自分もどうやって学習していったのか覚えてません。

何事も最も基本的な事は、なぜ?と疑問をはさむ前に、こういうもんだ!と理屈
ではないと認識するべきなのでしょうか。

その様な学習無しには、その先を学べないという人間としての基本なのかもしれ
ません。

武道空手の指導においても、相手が理解できないと言う事について、教える側が
しっかり認識して良い判断をしなくてはならないと、子供の宿題を通して考えた
事でした。

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