武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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強くなれるチャンス

道場にたまにしか行けない状況が続いているが、これはいい面もある。

まず一人稽古に気合が入ると言う事と、もう一つは技術的以外の強さが得られると言う事である。

一見、武道とは関係の無い生活上の様々な出来事。
これらが自分を強くしているなとつくづく感じる。

その出来事とは、

今まで以上に責任感を持たせてくれるもの。

自分の原点を思い起こさせてくれるもの。

未熟な自分を分からせてくれるもの。

素の自分を受け入れてくれるもの。

いろんなものがある。

今頃になって、道場の外にこんなにも自分が強くなれるチャンスがあるのかと思い知らされた。

昔は武道と東洋医学だけに集中したいと思ったりしていが、果たしてそれだけの環境で強くなれただろうか。

きっと精神的にアマちゃんのままで、武道もたいしたものは出来上がらなかっただろうと思う。

そういう今もまだまだな訳だが。

いろんなものを背負った分、強くなれそうな気がする。

背負いたくなったもの、背負わなくてはならないもの、

いずれにしても背負うか、背負わないかは自分で決める事なので、
そう言ったものを見つけ、

「よっしゃ!こいつも背負ってくか!!」

と思うと、気合が入る。
今まで以上にがんばれると感じる今日この頃。
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格闘技の試合を見て思う事

倒しに行こうとすると、体が居着く。

パンチの破壊力や回転を上げる為に体軸を保とうとする。結果、体捌きの操作が
しにくくなる。

軸を保つには顔や中心線を動かす事ができない。

上体の体捌きをしながら打つ。これが一体化した選手は強い。往年のモハメド・
アリやマイク・タイソンは実に巧みであった。

だが、相手のパンチを受けない様に、頭を振りながら入り攻防一体の動きをしようとして上体を動かそうとすると、今度は足を踏ん張らないといけない。

足を踏ん張ると、いくら上体がよく動いたとしても、蹴りを避けるのが非常に困
難になる。

顔面パンチがあり、蹴りもある格闘技の選手の構えのほとんどがアップライトス
タイルであるのは当然の結果なのだろう。

上体を振りながらフットワークを華麗に使うのは無理である。

やってできない事はないが、手先足先など体の末端の動きは早くなるが、体全体
の動きができなくなる。
大きく下がる、体捌きしながら入る、などが無理になる。

つまり攻防一体で破壊力のある動作をするには、これらの事を克服しなければならないと言う事だ。

自分がプロを辞めるまで、解決できなかった技術上の問題点は、今も自分の原点である。

この疑問、劣等感、憤りがなかったら、宗家と出会えなかっただろう。

デジカメ教室?

この前の日記、吸気と脱力、横隔膜をゆるめる事に着目したのには、実は前からアイデアがあった。

それは武道、格闘技、スポーツなどとは全くの別ジャンルで、カメラで撮影する時の身体操作だ。

これは以前勤務していた会社で主宰した「デジカメ教室」からのものである。
会社の利用客と言う様な方々へのイベントとして企画したもので2年前に行った。

某大手カメラメーカーのOBの方々によるもので、デジカメの操作から撮影時のポイント、写真の構図、実技、プリントアウトまでの行程を一日で行った。

肝心の吸気時に移行する際の横隔膜の脱力による様々な効果を発見するに至った事だが、

「シャッターを押す瞬間は、息を止めているか、息を吸いながら押す。吐きながらだと力が抜けてブレてしまう。」

と言う事だった。

また、武道空手では少しずつ息を吐き続けるか、何気無く止めていると言う使い方をする。
勿論、相手の間合いの外ではこの限りでないが。

今まで何事も呼気による脱力を中心に身体操作を考えてきた。
脱力する事が最上の事と思ってきた。
吸気時は身体が居着くと理解していた。

しかし、実際に吸気しているかどうかと言う事より、吸気時の身体のあり方を細かく観察して、他の応用の仕方があるかどうかを探っていく事が重要だと思う。

結果的に探ると言うより、日々の様々な体験を通して「気付く」訳だが、これも普段から様々な物事を伝統武道や伝統医学に還元できなだろうか、と考える癖があるおかげだと思う。

でも、まさかデジカメ教室で後々まで影響する様な大発見があるとは思いもしなかった。

発想の転換なんて、そうそうできるもんではない。

この様にして、自分に関わる人たちから多くの恩恵を頂いていると思うと感謝しかない。

こうした様々な恩恵を絶対に裏切らない。
絶対に裏切れない。

呼気と吸気、横隔膜の脱力

受動筋力筋力を活かすには、全身を締めるのと呼気と共に剛体化させるのがお決まりの様に思っていたが、時と場合によっては呼気と反対の吸気の操作、少し横隔膜を緩める様な操作の方が受動筋力が働く場合がある。

骨だけで支えている感覚である。

これはマッサージなどの治療中によく感じる感覚である。
最小限の力で、患者さんの体に手を乗せて自重を支える。
これを組手技術に活かす事も研究しなければならない。

宗家が「浮身」、「ガマクをかける」と言う身体操作の説明において、胸郭を前上方に軽く引き上げ、横隔膜を緩める様な状態を作る事を指導して下さった事がある。

必ずしも、腹の締めを使うものではない。
力を込めると言う事は、意識的になり能動筋力優位なってしまう。

浮身から脱力、自然落下、そして呼気と共に打つ。

これが原則的に考えられているが、逆に脱力からさらに脱力する。
意識的に呼気を伴わせる事をさせない様にして、逆にさらに吸ってみる位の操作で行ってみたら、また別の次元の脱力が得られるかもしれない。

瞬間的、爆発的な脱力が可能であれば、その直後に必ず爆発的な剛体化を自然と行うもの。

これは生理学の反射と言う本能による現象であり、老人でもその能力は維持しているものである。
例えば、熱いものを触れば間髪を入れずに手を引っ込める。
もう亡くなったうちのばあさんも90を過ぎても、そんな場面があったのを覚えている。

当たり前と思っている事、公式、原則と思っている事も、ちょっと裏返したところから見た方が、よりその本質に近づける事もある。

さらなる技術の発展を目指すには、根本的な身体の活用の違いから考え直す事が先にすべき事なのかもしれない。

落ち込む

たまに落ち込む事がある。

仕事でも、武道でも。

が、それくらいでなければならないと思う。

なぜなら、以前は自分を厳しくみてくれている先輩や師匠がいたからだ。

自分を自分で把握する。
これは大事な事だ。

柳川宗家はあまり弟子を悪く言う事はされない。
いくら言ったところで、本人の意識が高まっていなければあまり意味が無いからだ。

しかし、そんな無言の指導が時に猛烈に反省させられる事が多々あった。
こんな駄目な自分をよく指導して下さっているな、と。

最近も相変わらず、道場に行けていない状態で、自分より上の人たちからの評価を頂く事がない。

人に依存する様ではいけないのだが、人は油断すると慢心するもの。
厳しい目で見られる事は不可欠である。

仕事でも武道でも、自分はこれでいいのかと思う事はよくある。
自己否定は何も生まないが、肯定するのもなかなか難しい事である。

だが、自己を肯定しなくても、非常に良い状態でこなせる時がある。

自分の立場、肩書きなどの人間としての「外枠」を気にしないで行動できた時である。

そんな時、自分の中に自己の否定も肯定も無い。

ただ自然で、楽しく、自分らしい状態であるだけだと思う。

そんな状態は、常日頃に受けている様々なプレッシャーによるものでもあろう。
先にプレッシャーがあるから、解放された状態との落差を感じる。

プレッシャーも悪くはない。

だがそのプレッシャーとほどよく付き合っていくには、生活の中で楽しめる、安心できる様な時間がなくてはならない。

こんな時間、歳をとるごとに大事に思えてくる。

人は皆、ほんの些細な事で自分を保っている。

些細な幸せに感謝。

何気無い一言で自分を励ましてくれる周りの人に感謝。

皆々様、いつもありがとうございます。

快を求める

身体感覚は感情の影響をダイレクトに受ける。

集中している時の身体感覚、リラックスしている時の身体感覚。

稽古の時の身体感覚は集中している時の身体感覚。

逆にその集中すると言う事が、限定した状況のみでしかその技術を使えない身体
感覚を作ってしまっているかもしれない。

集中して、心身のスイッチが入らなければその技術が使えないのだ。

それは武道の意義に反する。

いつでもどこでも、いざと言う時に役に立たなければならない。

いつでもどんな感情の時でもできなければならないのが武道だろう。

怒っている時、悲しい時、泣いている時、嬉しい時、はしゃいでいる時・・・・
どんな時でも「いざ」と言う時は突然やってくる。

自分は稽古に快を求める。

動物は基本的に快を求めるもの。
ならば、稽古時に快を感じられるやり方も必要だ。

快は本能、武道の技も本能であるからだ。

武道空手は自分にとって様々な快をもたらしてくれた。

効率の良い動き、人間の心身能力を最大限まで引き出してくれるシステムを持つ。

体に楽な動きは当然、快である。

武道空手は心身を開放してくれるもの。

最近はその様に感情との関わりを重要だと感じている。

戦う理由

今日は休みだったので、自宅治療院の患者さんが来るまでたまっていたビデオを観る。

大体がスポーツ、格闘技番組の録画したものだ。

そんな番組の中で、試合ならいつでも誰とでもやる、と言う意気込みを語っていた選手がいた。

自分も若い頃はそんな風に思っていた。

しかし、いざプロになってみたら・・・

個人的にうらみも無いのに戦う理由なんてない、戦いたくないと、ふと思ってしまい、デビュー2戦目にして早々に辞める事を決意した。

だからスポーツ、競技として戦える事がすごいと思う。
本人たちからすれば、ごく当たり前の事なのだろうが。

今の自分はどうか。

うらみも戦う理由も無いなら戦いたくない、ならば戦う理由ができてしまったら、追い込まれてしまったら、当然戦わなくてはならない。

これは別に非常事態の事だけではないと思う。

今後、当流が海外へ広く発信していく中、ある程度戦わなくてはならないと言う事もあるだろう。

現に、今年は宗家がブラジルを訪問された時にその様な事があった。

いつまでも宗家の手を煩わせている様では弟子として恥である。

ますます磨いていかなければならない。

自分の夢と人の夢

夢。

武道と東洋医学を修める事。
運動と治療、健康の関係について考え、実践する事。

だが最近、自分の夢の為には人の夢にも乗っかっていかなければ
進めない事に気付いた。

自分も夢があるが、自分の周りにいる人たちも当然それぞれ夢を持っている。
夢とは思っていなくても「希望」はあるはず。

そんな人たちの夢、希望を叶える事にも助力しないと、自分の夢もあり得ない
と思った。

なぜなら自分に関わる人たちに支えられてはじめて自分は自分の夢を追う
事ができると思うから。

まずは両親、家族の幸せ。
これはすぐにでも家に帰ればできそうだ。
とりあえず何かできる。

宗家の幸せ。
これは二聖二天流、武道空手の普及以外にない。

海外からの要望が強まってきている今、自分も追い風を
吹かせる様、尽力したい。

宗家と出会って12年。
自分は相当救われている。
肉体面、精神面でも。

親の恩と同様に宗家の恩に報いなければ、これからの自分は無いと
思っている。

それから仕事の仲間たちの幸せのために。
みんながそれぞれ向かいたい方向への手助けができれば、自分も
気持ちよく日々の治療業務が行えると思う。

友達の若いダンサーたち。
ストリートダンスは激しく怪我が多い。

怪我が無くても疲労が蓄積して、スランプのもとになる。
怪我やスランプがなければ上達するのも早く、コンテスト等でいつもの力が発揮
できる。

友人の子達のチームの専属トレーナーを買って出た。
自分もかつて打ち込んだ大好きなストリートダンスに情熱を燃やしているみんなの
幸せに役立ちたい。

自分に関わる人たちからもらっているパワー、元気、活気・・・・。

これらのおかげで自分と言うものがなんとか保たれていると日に日に感じる様になってきた。

自分の夢を追えるのは、自分に関わってくれるみんなのおかげ。

その人たちの夢と自分の夢はつながっていない様で、つながっている様に感じる。
最近、幸せになってもらいたい人が増えている。

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