武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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身体開発も病から?

今から5,6年前に胆石を患った。

小さく粒状で、指でつぶれる様なものだろうとの医師の診断だったが、これが胆管に詰まるのでかえって厄介だった。

激しい痛みの発作で救急のお世話になる事数回。

と言っても、どれも痛みのピークが治まった頃に自分で車を運転、自宅から10分程の救急病院へ行った。

現在はもう、過去の様な激しい発作は無いものの、消化器系がずいぶんと弱くなったので、食べ過ぎや冷飲食には注意している。

それでも肉体的疲労から内臓の疲労になり、食欲不振や下痢など起こしやすい。

こんな時は体も冷えて血圧も低下、集中力に欠ける。

この様な体を抱えながらの仕事と武道などの両立をしなければならないので、自ずと内面的調整法に目が向く。

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肝臓は右脇腹に広がった三角形。胆のうも右寄りにある。

右脇腹から右の下腹部にかけての部分、肝臓胆のう疾患の東洋医学的診断部位は、疲労がたまってくると、やはり硬くなりやすい。

その右脇腹を中心とした硬さが身体の動きにも影響し、武道やダンスなどの動きを妨げる。

そこで逆の発想で、右脇腹をゆるめる様に、武道やダンスの動きで試みる。

右脇腹を中心とした動きでダンスを組み立てる。
同様に武道の技も効果うんぬんより、目的の部位をゆるめる為の動きをしてみる。

すると思わぬいい動きをしたり、新しい発見がある。

こう言った事も中国武術、特に内家拳では当たり前の様に行われていることと思う。

自分の病んだ部位を普段の稽古の中で調整する。

死ぬまで続く武道の稽古。

この様でなければ、日常生活で起こる肉体的精神的トラブルからのリカバリー、咄嗟の事態への対応力は養えないだろう。

自分は病んだからこそ分かった。

体で分かった。

腹の石にも少しは感謝かもしれない。
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武術の威力

前回に続き、B-FIELD代表の山下さんの武術の威力についての御意見を転用させて頂きます。

以下、山下さんの文です。
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○○さん、△△さん、コメントありがとうございます。

> 剣道では面小手胴を狙うが、手裏剣ではどこを狙っています?
平野流は別にして顔面以外あまり威力が無い気もするが。

上記のご質問ですが、まず、○○さんのおっしゃる「威力」について、私見をのべさせてもらいます。

武術的な威力、あるいは効果とは「殺傷力」だけではありません。

たとえばボクシングの試合などをみていると、相手を血だらけにしてもノックダウンできないケースがしばしばありますね。

逆に、ほとんどケガを残さないようなパンチでも、相手に脳震盪を与えてあっさりとノックダウンしてしまうこともあります。

このことからもわかるように、「相手にケガを負わせる」=「相手を戦闘不能にする」ということではないのです。

そして、武術でめざすのは、相手を戦闘不能にする技なのです。

さて本題の「手裏剣でねらう相手の急所」についてですが、研武塾では、頭、腹、手といった部位よりも、相手の中心線上に飛ばすように意識して稽古をしています。

というのは、相手の中心を押さえた攻撃は……その当たりどころが上下に多少ズレようとも……軽く身をよじってかわすということができない脅威を与えるからです。

それはつまり、一時的に相手の出足をとめることができる、あるいは相手の戦闘力をそぐ攻撃となります。

しかし私も余裕があれば、目、のど、小手といったピンポイントを意識した的当て稽古にも取り組んでみたいと考えています。
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私も上記の山下さんの言われる様な威力が、武術が求めるべき威力だと思っています。

正中線上の攻防が大前提で、その上で技が展開されるものを一番に考えています。

剣術や居合など、日本刀と言う薄い刃物を基準とした稽古を積み、そこから手裏剣術に展開している山下さんならではの、非常に厳しい攻防の基準であると思います。

当然、古伝の徒手武術においても、先に武器術が存在した時代なので、そう言った武器の攻撃線を確実に捌く、正中線上の攻防が活かされているので、私も納得です。

山下さんの手裏剣術に御興味のある方は「研武塾」で体験してみて下さい。

武術と情報化

私の武友で、いつもお世話になっているB-FIELD代表の山下さんの掲示板
「武術サロン」から、また心にとめておくべきお話を転用させて頂ける事になりました。

今回は、武術と情報化についての閲覧者の方の御意見に対する山下さんの考えです。

以下、山下さんの文です。
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○○さん、コメントありがとうございました。
「武道、武術の情報化」に対するご意見、誠に勉強になりました。

よくいわれることですが、スポーツが普及、発展する際は、「する楽しみ」と「観る楽しみ」の双方が確立する必要があります。
それと同じように武術でも、「する武術」と「観る武術(*「読む武術」もこれにふくまれるでしょう)」のすみわけを進めるべきだとする考えがあります。
最近でいえば、格闘技ブームを加速させた「K-1」も、その一例といえるでしょう。

しかし、「生殺与奪」がテーマとなる武術の場合、スポーツと同じように「観るだけ」「読むだけ」の興味でふれていいものか?とする慎重論も根強くあります。
私もこの考えには一理あると思います。

また、武道、武術の情報発信にあたっては、インターネット時代の悪弊とでもいうべき「情報の万能感」も充分に配慮すべきでしょう。
「お金をはらえば何でも買える」というように、「言葉をとおせば何でも理解できる」という浅薄なロジックはとても横行しやすいものです。

事実、インスタントな答えを求めたがる現代人において、口上重視の傾向はますます強まっています。
そうなれば結局、武道、武術も形骸化し、衰退していってしまうでしょう。

○○さんのおっしゃるように武道、武術は体験主体の学びです。
その点はよくよく肝に銘じて参りたいと存じます。

自意識

日野晃先生の著書を読ませて頂き、また頭をガツンとやられた思いがした。

武道をたしなむなら、必ず「自意識」と向き合わなければならないとのこと。

日野先生の武道の定義とは、無差別テロの様な突発的な暴力、自分や守るべき人たちをおびやかすものに対し、それを即感知し、そしていつ行動を起こせば良いのか、最適なタイミングを判断できること、その行動を支える精神的支柱が大前提であること、とされている。

国と国の戦争は別として、一般のレベルに落としこんでみれば、個人対個人のやりとりになるので、そこには身体的技術も必要になってくるので、それがいわゆる一般的な武道の稽古になっているとのこと。

「動くべき時を判断し、どう動くかを判断し、実際に動ける。」

これが武道の大前提。

そのあとに身体的技術の稽古になってくる。

そして、その感知能力と行動力を養うためには、残念ながら道場だけでは無理。

日常の行いすべての中で本人がやるしかない。

その場の状況、相手(複数含む)の状況を判断するには、相手と真剣に向き合わなければならない。

相手と向き合う前に、自分自身と真剣に向き合わなければならない。

自分自身と向き合うことができなければ、いくら真剣なつもりでも勘違いが起こる。

相手を侮ったり、怒っていたり、イライラしたり、落ち込んでいたり、あわててたり、必要以上に恐れたり・・・。

それがあるから、組手などでも思うようにいかない。

また日野先生いわく、

「他人は自分の思うとおりにはならないと言う事をよくよく理解しておかなければならない。」
と。

これが理解できれば、対人関係でも考えることはあっても、思い悩まされることは減っていくように思う。
   

武道とはずばり関係性にある。

他者との関係を真っ先に感じ取ること。

自分自身のスキル向上にはまりやすい自分は、他者との関係をもっと意識的にとらえ、自分自身ときちんと向き合っていかなければならないと思った。

おそらく、治療の仕事において、うまくいかなかった、しっくりこなかったと感じる時は、自分ときちんと向き合えていなかったのだろうと思う。

好きこそものの・・・

前のブログ日記にも書いたが、わざわざ空手の動きで気功的な効果を出そうとする。

そのまま習った形で気功をすれば良いのだが、あえて空手の動きでやろうとする。

なぜそうするか。

空手が好きだからと言うだけである。
空手がしたい、空手でやりたいと言う事以外の何物でもない。

そこには強くなりたいとか、武道をやりたいとかの気持とはまた別の、純粋に空手と言うものが好きと言うだけの気持ちがあると思う。
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治療院の若いスタッフに、伝統的鍼灸の治療法や効果、その可能性についてよく聞かれることがある。

今までは、その謎めいた様に取られがちな「気の操作」について、あの手この手で頑張って理解してもらえる様に説明してきたが、今はそれは違うと思っている。

効果や可能性を聞く前に、君自身が伝統的鍼灸による治療法がしたいのか?

伝統医学が好きなのか、やりたいのか、それだけじゃないだろうか。

そう答えようと思っている。
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柳川宗家は言われた。

「感性は初めから答えを知っている。」
と。

だから
「やりたい!」、「好きでしょうがない!」
と言う気持ちが起こってしまうのだろう。
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やりたいと思ったところに道は開かれる。

やる前から疑いや迷いがあっては、感じられないものがある。

衝動に近いほどの強いエネルギーがあれば、必ず得るものはある。
例え進展は遅々としても。

その熱だけは冷めた事がない。

と思ったが、一度だけあった。
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シュートボクシングのプロをやめた時。

すべてに限界を感じ、格闘技、武道に関わる全てから目をそらしていたかった(ブログ開設初期の日記を御覧下さい)。

そしてストリートダンスに明け暮れた。

今ではそんなダンスから得た身体感覚が、武道だけでなく治療にも等しく活かされている。

むしろダンス経験無しには、今の自分の武道と治療は有り得ない。

そんな過去も今につながる大事なものであったと思うと、感性は初めから答えを知っていたのだろうかと思う。

気のレベルで

東洋医学では当たり前の事である「気」。

当然治療も気のレベルでの診断、治療でなければならない。

大手術を受け、
「あとは患者さんの生命力の問題だ・・・。」
などと言う時、何が生死の境を左右するのか。

どんなに手を尽くしても亡くなる方、だめかと思われるところから生還される方。
これは高齢だとか若いとか関係ない場合も多い。

現代医学、科学では判断不能な、決して踏みいれられない領域ではないだろうか。

それは「気」とか「先天的生命力」などとしか言いようがないもの。
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誰かの一言を聞いて、ぱっと悩みから解放された時。

鍼灸の師から治療を受けて、冷え切った体が一瞬で温まった時。
激しい腹痛が数秒の間にやわらいでいくのを感じた時。

自然の中を訪れて、心身の状態がぱっと清々しくなった時。

心身ともに落ち込んだ時に開放してくれたもの。

それらはすべて気の作用と感じる。

もちろん、現代医学の素晴らしさも充分に体感している。

胆石の発作で救急病院に行き、激しい痛みを医薬品でものの数秒で消してもらった経験も幾度かある。
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勤務する治療院が、ありがたい事に日に日に忙しくなっている。

精神的にはだいぶ慣れてきたが、正直、体力が追いついてないのを感じる。
何人もの患者さんの治療、対応を終えると一日の体力を使いきってしまった感じだ。

稽古も、そんな中でなんとか少しずつはこなしているが。

日々の歩行や立ち振る舞いで武道的身体を常に意識。

治療そのものが人とのやり取り、まして身体をとおしたやり取りなので、武道的研究にも直結する事が多いのが幸い。
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柳川宗家も体力的なハンデには随分と苦労された。
独自の調整法も身に付けられている。

宗家が開かれている「感性教室」の内容や、日頃弟子たちに下さる指導でも、無意識の調整法について言われる。

それは自己催眠や瞑想、空手技術の稽古法に直結したりしている。
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自分の場合、最終的には「気のレベル」で明確に「気の操作」を感じながら、「気の調整」をしていかなければ体力、気力は維持できないと考えている。

気と言うものをもっと前面に出し、そこを意識した調整法。
明確に技術として形にしなければならない。

日々の体力を維持すると言う重要なものならば、曖昧なものであってはならないと考える。

その様なところから空手の基本や構え、型などを行えばまったく違ったもの、単純に鍛錬法ではなく、調整法となる。

鍼灸の師をはじめ、今まで手ほどきを受けた中国武術、気功の先達の方々に感謝。

そう言えば何かの記事で、心道流の宇城憲治先生も「型を行うと体が熱くなる。」と言う様な事をおっしゃっていたと記憶する。

明らかに呼吸の操作と気のレベルで心身を操作しているとその時感じた。
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気のレベルなど当たり前と言う武道家、武術家も多い。

だが、それを明確に心身の調整法として表現できなければ、日々の仕事、生活と武道を両立する事は不可能だ。

おそらく他の古伝の空手にはまだまだこう言ったものが残されているはず。
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身体的な技術の鍛練。
それだけでは体力は消耗するだけ。

ただでさえ激しい動きである武術。
どこで回復をうながしたら良いのか。

必要と感じない頑強な人ならいいが、残念ながら自分はそうではない。

体力気力を養う、調整する行いも必要だ。

空手の動きで気の調整をする。

現在、いろいろと試験中である。

気功的な原理が分かれば、いくらでも空手の動きを応用できる。

だったらそのまま中国武術をやれば早いのではないか。

習った気功をそのままやれば良いのではないか。

そうかとも思うが自分はそれをやらない。

空手の動きで行う。

「転掌」、「三戦」、「ナイハンチ」、「セイシャン」、「バッサイ」、「平安」・・・・・。

自分の体が空手の動きでやりたがっているから。

空手が好きだから。

下手に動かない

不動心の事だろうと思った。

武術、格闘技においては下手に動いて墓穴を掘る事がよくある。

様々な難病等で身体を自由に動かせない患者さんたちの往診に行く。

鍼灸を使えれば、体にとって一番負担の少ない治療が可能だと思っているが、鍼灸を好まない患者さんもいる。

治療効果を求めるこちらの気持ちと患者さんの要望との調整。難しい。極めて武道的。

鍼灸を使えない。
全て徒手療法でのぞむ。

関節をやわらげたいのでストレッチをしたいが、その前に緊張をとる為に、ゆっくりと関節をゆらす。

だが、かなりソフトにやったつもりでも、施術後に疲れさせてしまう事も…。

全体の時間と各手技の強さやリズム、関節の角度、患者さんとの呼吸の一致など再検討。

結局、体への刺激は極力少ない方が良いのが大原則。

動きが少ないのが、体にとっても負担が少ないのが当然。
中国武術の内功や座禅、練丹法などの意味を再確認。

普段は仕事やその他の事に心身のパワーを使ってしまうのは仕方ない事。

精神や意識も無駄に動かさないのが最善。

以前は鍼灸や武術において、あらゆる知識、経験に貪欲だった。

それは必ず糧になるが、今自分はそういう時期でない。

黙って過去の糧を確認しながら、日々の進展をみる。

ひたすら自分の感覚に素直であれば、動かない事も大事。
他者との交流でその是非を見極める気持ちさえ失わなければ。

自分が消えたら

7、8年前に思った事。

宗家が今突然、いなくなってしまったら。

縁起でもない事だが、もしそうなったらと思うと、自分だけで、今よりもっと本気でやらなければ絶対に身につかないと思った。

そう思ってからは、やはり進展の具合は変わった。

そして今、ふと思った事。

宗家がいなくなってしまう以前に、自分が突然いなくなってしまったら。

事故、天災、病気…ほんの一瞬の先には何があるか分からないのは誰でも同じ。

そんな生きてくうえの基本中の基本を、ふと思い出した。
昔の武術家は意識しなくても当たり前に感じていたことだろう。

自分という存在の不確かさを自覚して取組んでいきたい。
何かを残したい訳じゃない。

自分がどこまでいけるか。

どこまでできるのか。

今考えられるのは、まだこの段階でしかない。

余計な事は考えず、目的に純粋でありたい。

いい音楽といい武術

本当に感情が露出した時に理解できる。

いつもソウル中心にブラックミュージックばかりで、クラシックや邦楽、その他のジャンルはほとんど聞かない。

それでもクラシックや民族音楽などで、たまにすごくいい曲だなと感じるものがある。

そんな時は、忙しさにやられて疲れている時、落ち込んでる時など、ネガティブな状態で、深いところにある感情や神経が表面に露出している時なんじゃないかと思う。

いいと感じる武術も、心底追い込まれたり、自信喪失したり、深い危機感を感じたりなどと、そんな時に見つけられるものかもしれない。

傷の深さと、見つけたものの価値は等しい。

肌で感じる

久し振りに道場へ行った道場仲間のM山さんから、「師匠のパンチは相変わらず軽く当ててるだけなのに洒落にならないくらい痛い。」と聞いた。

うんうん、とうなずくばかり。

自分は体が大きく(うちの道場では大きい方)実験台にし易かった為か(涙)、宗家の技を肌で感じた事数知れず・・・・。

あの衝撃と尋常でない痛みは精神と肉体に刻み込まれている(http://blog.goo.ne.jp/kida4649/e/b1599244e46627ba52b79916ba0e7323)

しかし、人の感動と言うものは、だんだんと「慣れ」によって軽くなっていく。

宗家の技をくらい、感動している様でも、同じ質のものに対しては無意識の内に、

脳が、

体が、

慣らされてしまっている様に思う。

危機感が薄れる。

武道を志すにあたって致命的欠陥。

以前、自分が技を体験させて頂いた、他の著名な武道家の方々。

稽古会や講習会などで、直に肌で触れさせてもらった。

すごい人はたくさんいる。

自分が師事する師と、異質の技、異質の怖さを、どの先生方も持っておられた。

そのどの技術も、

「やばい。」

身の危険どころか、死ぬなとあきらめるしかないすごさ。

そしてそれらの技術は、自分の師が用いる技術とは少し違った原理や法則があるのか、特徴も違う。

そんな「やばい」技術にどうやったら対応できるのか・・・・。

それは体験した者しか考えられないこと。

知らない技を体験する事の大切さ。

いつでも自分を困った状況に置くのが好きな様である(笑)。

未知の技術に追い詰められる事から脱出する技術を模索する。

これは武道にとって当たり前とすべき命題だろう。

危機感を持ち続ける事が、どこまでできるか。

危機感の無い武道は・・・・・?

外界を知る。

他者と触れる。

自分の身の程を思い知る。

宗家は様々な経験をもとに現在の技術へ到達された。
それの凝縮されたものを、そのまま頂いたのではその深みは理解できない気がする。

安易にいろんなものを見るのは、迷いになる可能性もあるが、必ずあとで活きてくる。

今の自分の研究心を支えているのは、やはりこの様な経験だ。
困った経験が多いほど、一人稽古の質が維持できる。

やられた経験、苦悩した経験はついつい避けてしまうものだが、あった方がよいだろう。

こうした過去の経験を食いつぶしている状態が続いているが、最高の技を体験できたら、

「一生もの」

になると思う。

殺されることをあきらめるほどの技術。

この人には絶対にかなわない、自分とはまったく次元の違う強さ、すごさは一生忘れられない。

体と本能で感じた怖さ。
そんな方々から頂いたものを糧に、今もずっと追い続けている。

一生の宝になるものを頂けた事は何にも変えられない。
感謝してしきれない。

無形の文化であるから、この様に人の手から手へと伝わっていくものなのだろう。

交流する事の大切さを思い知る。
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