武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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鍼の打ち方から全身の螺旋へ

最近の発見です。

最近もゆっくりとした時間が取れず、きちんとした文章でなく申し訳ありませんが、またメモ書きの様な形で記します。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鍼灸の大事。
「痛くない鍼を打つ」

鍼を持つ手、鍼を打つ手の要点。
伝統的鍼灸の「細指術」、「接触鍼」と呼ばれる技術。

丸く、素早く、やわらかく手の平、指を動かす連続した動作。

もともと手指の骨もいくらかカーブしている。
まったくの直線ではない。

人体すべてが直線ではない。
すべて曲線の組み合わせ。

手の平の中心にあるツボ、「労宮」を中心に丸く、螺旋に開く、閉じる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

丸い形で自然に開いた指の形、いろんな武術でも見た。

合気柔術の「あさがおの手」。
中国武術の「八卦掌」。
御殿手の開手の「三戦」。
空手にもある、「掛け手受け」、「回し受け」の手。

その他の中国武術、伝統空手などにもたくさん見られる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鍼の打ち方を練磨。

人間の自然な手の仕組みを改めて知る。
マッサージにも応用。

単に押すだけでなく、開いた指の形が螺旋状。
力が一方向に進む、行きっぱなしでなく、戻ってくる。

螺旋は終わらない。
円は戻ってくる。

行った方向と反対の方向に戻す運動。
もっともエネルギーがいる運動。

螺旋、円は自然に戻ってくる。
出たエネルギーが、そのまま戻ってくるエネルギー。

今までになくマッサージ、ストレッチ、鍼灸が楽。

更に進んで、手の平の螺旋が自然に変化できる様に、体幹部を合わせていく。

胸、腹、骨盤、下肢、足の操作が著しく変わる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「左右の腹筋を別々に使う。」

宗家が言った、武道空手の突き、蹴りの際の腹の操作。

今頃になって初めて「これか?」と言える体感。
腹も螺旋。

手の平同様に足裏も螺旋の動き。

歩行がかなり楽。

足裏の重心移動が、「前に蹴り出す」から「後ろに蹴る」の直線の往復運動から、

拇指丘 → 小指丘 → 外側を前から後ろへ → かかと → 内側と通って前方へ
→ また拇指丘に帰る

この様にぐるぐると重心点が回るだけ。
出した足を引き戻す感覚なし。
回している様な感覚。
内から外へ回す。

「三戦」、「セイシャン」の足使い。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
最短距離、直線攻撃が基本。
相手の正中線を取る。

動きの外観は直線だが、その動いている身体各部位の動きは曲線。
それらの曲線が集まり、結果直線を生みだす。

「らせんの手」。

小指から親指、親指から小指に向けて締まる。

以前、宗家が言われた。

「突きの時の速筋のつながり方は、腕の外側から肘の先、前腕の小指側から親指の方につながる様に使っているかもしれない。」

実際に、指で御自分の腕をなぞりながら示された。
後付けの理論ではない体感。
紛れもない事実。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
空手の直突き。

腹、背中、腕、手の内。

直線の中に確実に存在する曲線と螺旋。

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一日休み

今日は1日中、娘の相手をしながら家で体を休めています。

肉体的疲労が過ぎると気力も無くなり、精神まで疲労してしまうので、また一週間乗り切る為に疲れを取る事に努めたいと思います。

患者さんの為、治療に還元できる武道の稽古の為、疲れを取る責任があります。

そうは言っても、頭の中では治療や武道の新たな試みなどで回転しどおしですが。

予定していたバッティングセンターにも行けず、こなしたかった全てがこなせた訳ではありませんが、それに変わる新しい発見もあるので、不満はありません。

最近、韓国相撲の元チャンピオンと言う方を治療させてもらってます。

勤務先治療院の副院長が長年テコンドーの世界大会に同行しており、そういった人脈から紹介を受けた様です。

なんでもあのチェホンマンの大先輩だそうで、韓国でも国民的な英雄だそうです。

向こうは、スポーツで活躍した人への援助や称賛が、日本より手厚いですね。

チェホンマンと今も親しいそうで、彼も治療に来てくれたら面白いですね。


バレエダンサーの患者さんたちも、夏の発表会に向けて更に活発になってきました。

身体のメンテナンスに余念がありません。

治療に来るボクサーたちもこの時期は試合が多い様で、新人王戦などにつながっている試合に出る選手も多いので、こちらも治療に気合が入ります。

今、治療も稽古も本当に面白いなあとあらためて思わされる日々です。

さ、また明日から頑張らなくては。

今日は・・・

今日はがんばりました(笑)。

普段は武道、人の身体に関する事ばかりの日記ですが、今日は何となく一日の様子を書いてみたくなりました。

たまっていた進展の具合を、三回に分けてまとめました。
家の雑事の合間に途中で何度も分断されつつも、なんとか仕上げました。

その中で自分の感覚を確かめる為に、これまた途切れ途切れに練習をして、鍼灸の古書の解説書を読み、鍼灸の練習をし、一週間の疲れが出たのか夕方2時間ほど寝てしまいました。

金曜の晩は仕事が終わったあと、ブレイクダンスを練習するダンサーの子たちの所へ行き、体の不調などの相談を受け、少し施術をしました。

いつもダンサーのみんなから少しずつ技術を教わったりして、自分も様々な「理」をもらいます。

お返しに効果的なストレッチ、武道的な体操などを紹介します。
若い人たちと接しているだけでも元気になりますし、しかもダンスです。
楽しいことこの上ない。

練習後、彼らがいつも練習で使っている曲がたくさん入ったCDをもらいました。
気分が盛り上がるので、最高にうれしいプレゼントです。

昨日は休みでしたが、自宅でお二人治療をして、合間に稽古をし、早々に寝てしまいました。

思いつきですが、今週は1回、パッティングセンターに行きたいと思います。
昨年の10月か11月頃に一度試した事をもう一度確認したいと思うのです。

野球など素人の私が、バットの操作やフォームなど専門の知識なく、ボールが楽に当たる様になった事です。

前後に開いた後ろ脚の股関節に重心を乗せ、そこから滑り出す様にすれば、完全に振り遅れたと思う感覚でも、ジャストミートできてしまうのです。

これも宗家が言われる、

「前進する時は、前足を仮り置き(浮かせる)する様に運び、体重の乗せないで、後ろに正中線を保つ。」

と言われた事を確認しようと思い、10年近くやっていないバッティングで試したのです。

柳川道場に通い始めてから12年。
その間、バッティングセンターに行った事も、草野球などもした記憶がありませんので。

40歳。
私に限らず、同年代の方々はいろんな意味で、責任や為すべき事が増えて大変だろうと思います。

私も順風満帆と言う訳ではありませんが、低空飛行でも良いので前進し続けていきたいと思っております。

早く寝られるのは休日のみ。
今日も早めに休もうと思います。

中丹田〜みぞおちを鍛える〜

前々回の日記の「足閉じ」から得た、背中の真ん中辺りの吊り上げからの進展。

中心部の感覚が濃くなり過ぎると、末端とのつながりが薄くなり、また調子が悪くなる。
中心部(正中線、丹田など)から動く事を保つには、四肢末端までのつながっている感覚も必要。

これを出すのに不可欠なのが「中丹田」、すなわち「みぞおち」の部分。

宗家は若い頃に、武道の「理」の体現の為ではなく、急所の克服の為にこの「みぞおち」を徹底的に鍛え上げた。

ひもで上から吊るした鉄アレイをみぞおちに何度も落とした。
その結果、みぞおちは急所として意識しないまでに鍛え上げられたと。

この結果、自分が考える武道空手の理に必須条件である「中丹田」付近の操作感覚とその強さが養われたのだと考えている。

もちろん、筋力だけでなく、相手に打たれるタイミングに合わせて腹筋を締めなければならないのだが、宗家の場合、腹の急所を意識しなくなり、思い切って「反身」で正中線をさらけ出して前進、攻撃をしかける事ができる様になり、結果として体捌きを会得され「みぞおち」を打たれる事がなくなっていったので、より急所として意識しなくなっていったのだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
一般に下腹部にある丹田、「下丹田」が最重要である様に言われる事が多いが、自分は「みぞおち」、「中丹田」の重要性を強く感じる。

結局は「上丹田(頭部)」も含め、主な三つの丹田(重心)の吊り合いが大事だと言う事で、下丹田だけを重要視するのは武道空手の原理再現の為には「毒」であろうと思うのである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
背中は頭から尾骶骨まで、背骨でつながっているからつながる感覚は出し易い。
もっとも、普通のつながっている感覚は、力んでしまっているので、武道的には一工夫が必要であるのは言うまでもない。

ところが体の前面は胸は「胸骨」や「肋骨」でつながっているが、「みぞおち」からは骨が無く、筋肉だけのつながりである。
その為、つながりの“切れ目”である「みぞおち」の意識と感覚がなければ、正中線の操作感覚は出ない。
その意味で「下丹田」である下腹部の腹筋群の運動も必要である。

なるべく別々に鍛えるものでなく、腹筋群を一体化させた運動が好ましいが、最初から全体は意識しずらいので、分けてやるのも方便と言うものである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
みぞおちは浮身に必要な「背中の真ん中」の表側に当たる部分である。

「足閉じ」から得た「背中の吊り上げ」をコントロールする為にも、その前後で対となる「鳩尾(みぞおち)」を鍛練するべきだ。

背中の真ん中も鳩尾も「横隔膜」、「ガマク」の付着する部位。
呼吸と動作の一致が大事と言われるのも納得。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
自分は胃が弱く、二度も痛めた事があるので、この部分に対して劣等感と恐れがあった様だ。

ここ2年ほどは胃の調子も安定してきた為か、鳩尾を鍛えると言う意識も持てる様になってきたのだと思う。

情けない事だが、自分が過去2回、胃を痛めたのは、どちらも仕事による疲労とストレスである。
仕事、労働環境には充分、注意したいものである。

中年武道愛好者の皆様、お体には充分お気を付け下さいませ。

メモ書き

先週末から雑事にまぎれ、更新できなかった進展の様子を書き留めました。
なかなか時間がとれず、最低限の文でメモ書きの様になってしまいましたが、お許し下さい。

短い文の連続なので、説明足らずで誤解を招きやすい部分もあるかもしれませんが、何卒御容赦下さいませ。

武道愛好者の皆様、二聖二天流に関心を持たれている方に、少しでも何かアイデアの足しにでもなれば幸いです。

自分に書けるところは秘する事なく、できる限りこちらの日記で御紹介させて頂きたいと思っております。

以下、本文になります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
肩の位置?
運動の種類によりそれぞれ適した位置あり?
当たり前・・・・?

種目は関係ない?
人体普遍の操作、あり方は?

ダンスを練習すると武道空手の突き動作に違和感。

武道空手に適した位置。
やや前寄り? 
基本、攻撃は前方にするもの。
肩は前。拳、肘などの発射準備。

昔の西洋の甲冑の肩の位置、前寄りについていたとか。
前方の正中線に沿った位置。

ダンスに適した位置(アイソレーション)
前後左右、均等に動かす。別々にも動かせる。


仕事中から右腰の疲れ易さ。
右膝への重心の乗りが悪い。
ダンス(ポッピング、ロックダンス)の動作練習。
右膝に重心を乗せなければやりにくい。

運動形体によりそれぞれ最適な動きあり。

宗家が言われる様に
「いろんな事をやり過ぎると下手になる。」
これも本当だが、
「いろんな事から本道に必要なものを見つけられる」
これも事実である。

宗家も色んな運動、いろんな鍛練法を徹底的に行った。
すぐに技に結びつく効果を求めず。
ただ単に体力増強の為に。

結果、技の真理に近づいてきた道程がそこにある。
宗家の上達した過程こそ見逃してはならない現実。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「浮身」の意識が過剰。
求心性。重力を支える受動筋、意識、中心に集める。

体幹の意識が濃過ぎ。
四肢末端の意識薄れる。
四肢の動き固まる。鞭身途絶える。
浮身無くなる。体重くなる。

末端の意識欲しい。
腕、脚振り回す。太極拳の準備体操的動作。具合がいい。

たまたま治療院に中国武術(表演)をしている若いサラリーマン、腰痛で来院。
やはり股関節固い。動きが悪い。
実際に動きが固い。

再発予防の為、武道空手的、太極拳の準備体操的動作を指導。
自分にとって最高のタイミングで、最高の縁。しかも仕事で。
神仏に感謝。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
求心性の運動と遠心性の運動。
両者の感覚が必須。
片方だけになりがち。

柳生心眼流の稽古。
「素振り」による遠心力と直進力への変換の練磨。全身の操作で。

「八極拳」。
強大な直突きのイメージ。
直線攻撃に習熟する為、伸び伸び振り回す様な「劈掛掌」も必須?

「足閉じ」で体幹部の意識濃くなり過ぎ。
振り回す動作で五体の吊り合いを取り戻す。

遠心性、求心性。
「陰と陽」。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
太極拳の「掤」。
最小限の力で立ちながらも、最小限の張り出す力。全身に。

空手の「沈身」。
「抜き」による反応の速さを求める。
最小限の力で立つ。
ほんのちょっとでも抜けばすぐ動ける。
脱力重視。

脱力する。筋肉が弛緩する。だらっとするイメージ。
脱力ばかりが先行。
気が抜ける。インナーマッスルの使用頻度高まる。
変な疲れ。
抜けにくい疲れ。

アウターマッスルの衰え。
古傷が痛みだす。
また筋トレをする。
内部の操作感覚薄まる。
また感覚を整える為の稽古。
いたちごっこ。


武道的動作重視?
基礎体力・健康重視?
どちらも必要。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
武道空手的身体、「抜き・脱力」重視。
不安定の中に安定を求める。
「動的」。

抜きの前に「掤」・「張り」ありき。(「掤」は中国武術の専門用語なので、私の武道空手的感覚から「張り」と呼ぶ事にします。)
「張り」は安定。
「静的」。

攻撃時は体力、気力を消耗する。
「動」を求める。
気力体力を回復するのはリラックス、安定させる。
「静」を求める。

武道空手の中に「張り」の考え。
今まで「抜き」だけ。

気持ちや「呼吸」が安定。

すべてに必要なのは「陰と陽」。
気の発散と収斂。
鍛練と休息。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
40歳の誕生日にその様な事を考えていた。
自分の中で対立していた様々なものが、ひとつにまとまった気がした。

私の鍼灸の師の師である先生が、個人で主催されている鍼灸・漢方の勉強会を「陰陽会」と名付けられた。

自分もこの世に存在するもの全て「陰と陽」のはたらきであると言う、一言でまとめる作業しかないと感じた。

不惑を迎えた日に、自分が持つ武道の稽古会を「陰陽會」と名付けたいと思った。

浮身と宗家の遊びの動き


ここ2日位で新しく気付いた事もありますが、まずは前回書けなかった感覚の進展について、御報告したいと思います。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
5月12日。
昨日分かった武道空手の理について。

それは浮身に関する事、古伝の空手で“ガマク”と呼ばれる部位と作用の事、居着かぬ足の事に関係する。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
以前にも書いた事だが、宗家がよくやってくれる武道空手の原理から得た「芸」の様な動作。

それは、あたかも「人」と言う字の如く、膝を伸ばし肩幅よりも大きく足を開いて突っ立った状態から、何の反動もつけずに“スーッ”と両足を同時に閉じていき、気を付けの様に直立の状態になる事。

この動き自体は、慣れればできる事であり、運動をよくやり器用な人なら
「なんだ、そんな事なら自分もできるよ。」
と思われる人も多いと思う。

自分もそう思う。
少し無理矢理にでも、足を閉じる時に勢いを付けてやればできない事はない。
足を閉じる際に左右の動きに差が出ても、まずは体感する事が先だから、宗家もそれで良いと言われる。

柳川道場の床はよくニスが塗られ滑りにくいのだが、宗家は裸足でやってしまうのである。

不利な状態でも、強引に力んで動かしている様に見えない。
ここにこそ、拘らなければならない!と強く思ってしまうのである。

その拘りが稽古の進展を遅くする事もあるのだが、最近は少しずつ実行力や気持ちの前進力がついてきたか、ちょっとはましになってきた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
自分の場合、何度か道場の床で靴下もはいて滑りやすくしてみたのだが、体の感覚が納得しないとやる気がしないし、チャレンジする気もわかないと言う困った性分なので、それきりやめていた。

納得のいかない操作を無理に練習すると、今開拓している優先すべき感覚が死んでしまうと思ってしまうのだ。

で、やりたいと思った時には徹底して行う。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回、この「足閉じ」の操作をやってみようと思ったのは、自分は浮身に関する必須事項、「両足を同時に浮かす・動かす」
と言う事がいま一つだなぁと感じたからだ。

これはその場での「順突き切り戻し」などの練習でいつも感じていた事と、裸足ではなく靴をはいた状態でのやりづらさを感じていた事による。

道場では裸足なので、こんなところの実験ができるのは、自宅稽古のいいところ。

自宅に庭で巻きワラ、砂袋等で突き蹴りの稽古をする際は、よく履物を変える。

いつも履いているティンバーランドやホーキンスのブーツ、ハイカットのバスケットシューズ、ジョギングシューズ、地下足袋、サンダル、たまに一枚歯の下駄、裸足など。

外出時の靴でも変わらず動けないと意味はない。
靴を履いて稽古するのが当然の中国武術では言うまでもない事だろうが、裸足で行う稽古もあると聞いた事もある。

先日、サッカー選手だった治療院のスタッフに聞いた事。

「最初は裸足で練習した方がいいですよ。その方が足の感覚が強まるんで。ブラジルなんかが強いのは、みんな子供の頃から裸足でやるのが当たり前だからじゃないですかね。」
「そうかあ! それは興味深いねえ。 うんうん、なるほどお。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「その場足閉じ」の動作は昔から大の苦手だったので、思い切って一番楽にできる方法で行う事にした。

風呂場で足裏に思いっきり石鹸をぬって、洗い場の床にもシャンプーを塗りまくった。
これで準備万端。

娘と一緒に風呂に入りながらやっていたので、湯船から見ていた娘が
「パパ全然頭が動かないね。」
と言ってくれたのは、自信がついた。
例え、石鹸塗りまくりのインチキであったとしても。

こう言った意見が娘から出るのも、3歳の頃からもう4年は習っているバレエのおかげでもあると感じ、娘の趣味や努力、バレエ教室の先生にも感謝。

しかし、風呂場なだけに素っ裸でやっているので、娘には相当バカなオヤジに写ったと思ったが普段がいつもそうなので、普通のものを見る様に動きの感想を言ってくれたのにはまいった(笑)。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
風呂場で行った「足閉じ」は、左右からの閉じだけでなく、前後方向、すなわち縦セイシャン立ち(前後に開いた両足先をやや内側に閉めた立ち方。重心は前後の足に掛けず真中。)で、前後の足を入れ替える動作も行った。

これはその場での「歩み足」になる。
宗家はこれも床で行う。

見た瞬間、「できるわけないよ!」と言いたくなる不思議な動作。
巷では二聖二天流が宗家にしかできない、宗家一代で終わるとも噂される所以である。

しかし、宗家が言われるとおり「理」を追及すれば、そんな事はない。
ある程度の条件はあるが。

話は横道にそれるが、宗家のお話をうかがった中で、自分がこれだと思う武道空手を行うのに不利な条件が2つ。

1、 姿勢が悪い。
2、 腹回りが太すぎる。

である。
1番は当たり前の事として、2番は宗家が言われる
「食い過ぎていると感性が鈍くなる。」
と言う事とも一致する様に思う。

単純に考えて、太っており、腹筋群による腹の内圧の操作が器用でないとできないのは当然だろう。
胃の弱い自分などは、疲れた時に食事の量が過ぎるとてきめんに感じる事。
感性の問題を置いておいても、人体の構造的にダメなのである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さて、風呂場での「その場足閉じ」と「その場歩み足」でつかんだ事。

要点は背中の真ん中ら辺の背筋で、下半身を吊り上げる様にする事。
もちろん、下肢は脱力しながらも足首、膝、大腿部などを必要なだけ固める事は必須である。

運動の感覚など個人によりまったく違うが、自分が思うにこの操作のコツは
「背中で引き上げる」
である。

言葉にすると吊り上げるになるのだが、脊柱を反らせて、胸辺りの重心を前上方に引き上げる感覚である。
このまま頭が少しでも前に出れば、頭と両足が前に飛び出る感覚である。
今言った動作も宗家がよく説明時に見せていた動作である。

様々なところで、宗家の何気ない動作、動きに核心がある事を思い知る。

そして冒頭で述べた「ガマク」の操作とは、この背中の真ん中辺り(肩甲骨の下から肋骨が終わる辺りの背骨周辺)の背筋を「反らす」ことによって行う両足同時に動かす操作、すなわち「浮身」なのではないか、と言う事につながると考える。

結局は「ガマク」、横隔膜の付着している背中の部分の操作なのだろうと思う。

そして、浮身ができれば、自ずと足腰や下腹の重量が上半身とつながっている状態になるので、突きの際に拳に伝えられる「鞭身」が可能となる訳だ。

それでも肩や上肢の脱力はまたそれはそれで別の要点もあるのだが、一応全体としてはまとまる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これで宗家の独特の姿勢、「反身」が納得。

突きや蹴りの威力、加速だけを考えていると、体全体の浮身や鞭身には絶対に行きつかないだろう。

これについてまた思うのが、最近宗家とよく似た理論の足捌きによる
「遠間からの突き」や、「膝を抜いた居着かぬ突き」
などを武道・格闘技雑誌で見たりするが、いまだ宗家にしか見られない、二聖二天流の基本の基本である「両足同時に浮かす・動かす」と言う動作は、宗家以外には自分は見た事がない。

雑誌などの写真で評するのもおこがましいが、動きの途中の写真であれば、両足同時に動かせるかどうかは予測がつく様に感じるのだ。

確かに膝の抜きで進出し、長距離の移動と全体重の乗った衝撃を持たせる事はできるだろう。

しかし、その動作では、動作の終盤で進んだ方向の前足に体重が乗りきってしまい、途中で行先変更もできず、居着いてしまっている。

どんな時、どんな動きでも途中で変化できる。
これは両足を同時に動かす事、つまり完璧な「浮身」ができないと不可能な事だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
二聖二天流の場合、前足に乗り切っている様な場合でも、両足が同時に動かせると言う「理」を体得する。

その本質に近付けた様に思えた感覚が、「その場足閉じ」の動作の克服であった。

これをやると背筋を使うので、背中が疲れる。
宗家が背中や腰に疲労を溜めやすいのも改めて納得した出来事だった。

最近の進展

週末からの技術的な進展が早く日記の方が追いつきません。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
宗家が武道空手の身体操作を得る為に行われていた"遊び"的動作の一つから急な展開を見せたが、その後そこからどんどん発展している。

武道空手的な鍛練と、体と気を養う為の中国武術の内功的鍛練が一致と言うか、明確な使い分けとその意味も分かってきた。

本日で不惑の歳を迎えたが、一気に今までのものがまとまった気がする。

一言で言えば、技術も養生も自分の行なう武道空手の技術体系で一致してきた。

今までは日本武道と、中国の健康法とが、自分の中で一致しなかったが、また一つ大きく前進できた様に思う。

技術も養生も全て「陰と陽」。

技はできても四六時中、不健康で疲労を溜め過ぎては使い物にならない。

健康であっても技ができなきゃ意味が無い。

これらについて近々まとめてみたい。

いい疲れ…

昨日、今日と患者さんや親類の治療、近所のお寺での施餓鬼供養などの用事の合間にたくさん稽古ができた。

と言っても、自宅での一人稽古だが、庭の巻きワラとパンチングボールに砂鉄を詰めた手製の砂袋を交互に打ち込んだ。

何度も何度も巻きワラと砂袋の間を行ったり来たり。

土曜の夕方に今まで苦手であまり手を着けていなかった鍛練を試し、かつて無かった感覚が背中に起こり、浮身や連打、変化技に新しい展開があった。

鍛練と言えど、正式な基本や形などの動きではない。

宗家が正中線や浮身を得る目的で行っていた"遊び"的な動作である。

自分は以前から、この宗家が見せてくれる遊び的な動きに強い関心があり、それらを全て書き留めていた。

詳細はまた後日書いてみたい。

とにかく疲れたので、明日の治療業務を一日乗り切る為に早く寝ようと思う。

今日は暑かったせいか、となりの小学校のプールのカエルが一際大きい声で鳴いている。

いつも向こう岸にいる様だが、うちの窓際に近い方にいる様で、泣き始めなどびっくりする位に大きく聞こえる。

子供の頭をなでながら、カエルの鳴き声を聞き、眠りにつく。

身も心も休まる、束の間の贅沢な時間。

感じる

それは極めて受動的であり、主体的であり、生命活動の根源的なものである。


普通、生活の中ではいろいろと「しなければならない事」や「させられる事」の方が圧倒的に多く、季節の変化や身の周りの自然などに気が付く余裕などなかなか無いものである。

生きていく為には糧を得る必要があり、その為には自分をころさなければならない。

具体的に言えば、自分の「感覚をころす」と言う事ではないだろうか。

自分がどう感じるかよりも、周りの多数に合わせる事が必要とされる社会生活。

当たり前で、とても大事な事。

しかし、武道に必要な心身を得る為には、否、一人の人間、一つの生命としては、周りの感覚よりも自分の感覚が優先されるべきだろう。


例えば「痛い」。

人から見て認識できるものではない。

医学的所見が見られない激しい痛みもある。

しかし、痛みは生命の危機を身体が訴える、なくてはならない自分だけの感覚だ。

それ以外にも人は、様々な感覚を感じる瞬間があるものだ。

なんとなくでも自然に感じてしまったのなら、それは受動的である。


「あの人、なんとなく相性が良さそう。」

などと、それが間違っているか、正しいかは時間が経過しないと分からない感覚もあるが、いずれにしても生命のレベルで感じているのは間違いなく、その感じた過程が必要か不要かは問題ではない。

その様な感覚を使っていないと、大事な時の判断に苦しむ事になるのではないか。

仕事でも対人関係でも、常にベストの回答を出すのは不可能。

常にベストではなく、その時その場での「ベター」を求め、随時修正をしていく事が現実である。

現実、生きていく事、武道の技を出す事、この世の全ては「進行形」である。

常に自分の感覚を感じられる様な心身でありたい。

生命そのものが極めて受動的であると思う。

生は与えられ、体の仕組みが勝手に維持してくれ、勝手に消滅させていく。

体に任せきる事ができれば健康にもなろう。

生命を充分に活用するには、心身に勝手に湧き上がってくる感覚を味わう時間をもうけてやりたい。

多忙な現代社会だが、少しでも。

治療の為にも、武道の為にも、自分が元気でいる為にも、今後さらに感覚を重視した稽古をしていきたい。

瞑想も良し、内功的な鍛練も良し、道端の花に見入るのも良し、人の体を治療するのも良し……手前ミソな話しだが、一人で静かに好きな音楽を聞きながら好きな酒をちびちびやる。

たまに行くソウルバーで過ごす時間も、自分にとっては大事な時間である。

相反するもの、その両者を求める

今朝、早く目覚めた。

窓を開け外の空気を吸い、鳥の声を聞く。

目の前は小学校の校庭、その先には川の堤防が見える。
目の前をさえぎる物が無く、広々とした風景だ。

物心ついた時から、この風景をいつも眺めてきた。

人体への思い、感覚などは、こういった常にある身の周りの自然環境も大きく影響しているだろう。

“感覚”と言うものは気付かない内に形成されているものだ。

今朝もこうした環境の中、少し体を動かして探ってみたい感覚を追いかけてみる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
最近の筋力の補強運動により、効率よく動かす為の身体感覚とが自分の体の中で釣り合いが崩れて、違和感を覚えたこの数日。

それを取り払う為の調整運動を行ってきた。

稽古の過程で狂いが生じてしまっても、取り戻すのも早くなったこの頃。
中国武術の内功的な内部感覚をもって、様々な体操(?)を考えてみる。

やはり、一般の体力ある身体と、武術的機能をもった身体とは、どうしても相反する部分がある。
しかし、基礎的な体力がないと、技の動き、武道の動きそのものに耐えられないのも事実である。

何度も何度も書いてきた事だが、その点有利だと思われるのは、武器を扱った流儀であり、武器そのものが筋肉に負荷を与え、補強運動と身体感覚の基準も兼ねるであろう事、それと徹底して内部感覚にこだわった中国武術の内家拳的鍛練法の2つである。

自分は幸い、この二つのものに触れる機会があったので、稽古法を工夫するにも大変役立っている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「能動筋力」。

一般的な運動により出される力であり、武道の求める速さ、またいつでも変化が可能な状態を保つと言う点が満たされない力の出し方である。

自分も基礎体力を戻す為に行った補強運動が、この能動筋力の割合が主となってしまった様で、今まで作ってきた武道的身体の方がこれを拒否しているかの様に、全身の違和感を出している。

神経質だと思うが、本当に普通に生活しているだけでも、その違和感が気になって仕方がない。

そしてそれを取り払うべく、武道的身体を取り戻そうと、身体をゆるめる稽古を主にすると、逆に脱力が行き過ぎて、なんだか頼りない。

それを解決するのが、“その流儀独特の基本の身体感覚”である。

最近、海外への普及の為に宗家がまとめられた身体各部の操作の要点や、以前から宗家が再三言われてきた事がこれに当たる。

脱力した身体は、腰腹からの力を加速し、増幅させて大きな衝撃力を生む「鞭身」や「沈身」を得るのに欠かせない。

しかし、このままであると止まった状態では可能でも、宗家の様に左右2本の脚が同時に滑る様に動きながらいつでも変化可能、距離を追う事も可能な「浮身」の状態で「鞭身」などを維持する事はできないのである。

「脱力した身体」と「流儀独特の身体感覚」
この二つが必須なのだ。
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自分が危険だと思うのは、この流儀独自の身体操作の要点だけを求めても、決してそれにたどり着けないと言う事である。

日常生活で身に付けてしまった悪しき動きの癖を取らずして、安易に言葉や理屈でその流儀の要を身に付けようとしても無理だと思うのである。

それはあくまで表面上の形、動きで終わってしまう。

武道的動作を可能とするには、やはりいきなり武道の動きから入ると、普段やりなれない動作を強いられ、そこに“力み”だけが形成され、挙句の果て似て非なるものとなっていく。

これは組手などで確かめればすぐに分かる事だが、自分の13年間の成長過程を顧みて、つくづく感じるところである。

この当たりの努力は各個人に委ねられているのが現実である。
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武道修得の要諦、
「守破離」
でも、最初は師の形だけを真似ろと言うが、では逆にいつからその中身、武道の技の本質である「理」について追及していくのか。

これは師や兄弟子などが適宜指示を出していくのかもしれないが、結局は自分の中で明確に「形」と「理」を分けてとらえられる感覚がないと難しい。

様々な古武道に存在する型も、その本質を見極めようとする感性があってこそ、型の中の動作で、どこをどの様に厳しく動くかを追っていけると思うのである。

「形」と「理」。

この両者にある距離を埋めるものが欲しい。
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最近の自分は筋力補強運動で迷った。

仕事、稽古に耐え得る最低限の体力増強。
それでも武道的筋力にこだわったやり方であった。

頼りないような脱力感と、いつでも動ける様な張りのある力。
これらを同時に持つためには。

これを太極拳や意拳では「掤」(手へんに朋。パン?バン?)と呼ぶらしい。

全身に軽く張った様な状態を保たせる為の力のあり方で、外力を加えられても自分の形を崩さず、その外力を流すなら流す、受けるなら受けるして、相手にその力を返していけると言う流儀の根幹の様な身体のあり方を、具体的に説明し、技術として伝えているのである。

柳川宗家はこれを「受動筋力」と言われた。

受動筋力は重力や外力に対して、それを受け止めるだけの力、自分の態勢、すなわち“正中線”を維持するだけの最低限の力の出し方、その身体のあり方である。

「転位、転体、転技」。

このいずれを行うにしても、それらを一貫して統べる「理」が受動筋力で動く事なのだ。

力み、能動筋力が無駄に入っては武道空手の動きはできない。

筋力補強運動はこれからも欠かせない。
しかし、当たり前のやり方ではなく、自分の納得できるやり方を模索していきたい。

理屈ではなく、“感覚”と言うものを大事にして。

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