武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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視覚に頼らぬ


自分は視力がいい。

40歳になった現在も左右とも2,0である。
昨年末の健康診断でも、それが確認できた。

目がいいのは、目に頼り過ぎる。

武蔵も、
「見の目、観の目」
と言って、単に眼で見る事と、全身全霊の感性で捉える事を分けて教えている。

柳川宗家も以前から、
「目のいいやつは目で見ちゃうからね。」
と言われていたので、視力が良すぎる自分をネガティブに思った事もあった。
なんとも罰当たりな話だ。

宗家はもともと弱視で、よほど近くでないと誰の顔か分からないが、道場へ遅れて言った時など、挨拶をする前に自分の足音などで、
「ああ、木田君か。」
などと言われた事がよくあった。

宗家の観の目は「聴覚のイメージ」であると言う。

宗家いわく、
「視界は前方だけだが、聴覚は全方向だ。」
との事。

息を何気なく止め、姿勢を良くしていると、相手がどんな技を仕掛けてこようとしているかが音のイメージで伝わってくるのだそうだ。

聴覚を研ぎ澄ますと、不思議と色んな感性が発達してくるのだそうだ。

ちょうど今、毎週土曜(7月11日まで全5回)行っている、宗家独自の
「感性教室」
も、聴覚を研ぎ澄ます鍛練法が必ず入っている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
だいぶ前に行った稽古。

真夜中に道場で、電灯を全て消し、相手に攻めさせ、それを捌くと言うもの。

どんなに静かでも、必ず何らかの音がすると、宗家は言われるのである。

床板から足裏が離れる音や、道着がわずかにすれる音、呼吸の音。
集中すれば、もしかしたら音でない音も聞こえてくるかもしれない。

自分も視力が良いと言うハンデ(?)を乗り越えようと、いろいろ試してみたが、今一つ何もつかめなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
過去の組手の経験を思い返し、やはり「目」に頼っているなと感じる。

前から目を閉じて、様々なバランスの鍛練を行ってきたが、どれも必死さに欠ける気がした。

いきなり目隠しをして組手と言うのもいいが、自分には段階を飛躍し過ぎて、単なる荒っぱい展開になり、正確性や再現性に欠けてしまいそうに思えた。
とことんやれば、そうではないのだろうが、今の自分にその余裕は無い。

対人でなくても、必死さが出る、視覚を奪った鍛練。

自分は段差が40センチほどの玄関の手前ぎりぎりのところで落ちない様に、目を閉じて「その場駆け足」をしてみた。

「その場足踏み」なら、目を閉じたままほぼ永遠に同じ場所で足踏みする事が可能である。

適度に脱力して、体内の軸やラインを明確に感じ取って行えばできる事。
しかし、組手や不規則な動きには、直接は結び付かない。

しかし、走る動作はそうはいかない。
ましてちょっとでも足が前に出たら、わずか40センチと言えど落っこちる怖さは・・・。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
最初は初めに目を開けた状態で、目の前のドアの小さな木目一点を凝視。
その位置を体で把握して忘れない様にイメージした。

全然ダメ。
何度か落ちそうになった。

「やはり空間把握は聴覚。宗家の言われる通り耳でやるべし。」

と思い、その場駆け足する自分の足音をよく聞いた。

前のドア、左の階段、右の壁など、それらにぶつかり跳ね返ってくる音。

そいつらを全て聞き分けようとした瞬間、あら不思議。
どうしてそうなったのかは分からないが、突然ずっと同じ場所を踏める様になった。

眼を閉じた状態で、視覚のイメージでする動作と、聴覚のイメージでする同じ動作。

たったそれだけの違いでこんなに急に変わるのか。
自分でも半信半疑。

これはより厳しい条件で確かめるしかない。
段差が40センチほどだから、はなから安心しているのだろうと思い、階段の2階の最上段へ。

念を入れて、階段と周りの電気も消した。
そして目を閉じて駆け足!

はたから見たらバカ丸出しであったろう。
本当に。

結果は同じく、安定したその場駆け足ができた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
この聴覚のイメージを全身にわたらして動くと言う事を、更に追求したい。
きっと何かつかめそうだ。

だが、組手、戦いの動きそのものではないので、単に
「目を閉じてその場駆け足が上手になった。」
だけなのかもしれない。

ただ、足音と言えど、

「自分の音を聞こうとする」

「自分自身に鋭く注意を向ける」

と言う事になり、ゆくゆくは自分の心の声、無意識の声も聞こえる様になるかもしれない。

禅であったか、

「数息観」

と言う行法があると言う。

静かに坐し、己の呼吸の数を数えていく。
己に注意、意識を向ける有効な手段。

そして己の聞こえぬ声を聞き、見えぬ物を見るのではないだろうか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ん?

音を聞く?

観の目?

観音菩薩?!

観音菩薩は全ての音、声を聞く、観る。

武道家の宗家が「観音経」をとても大事にされていた事。

今になってやっと分かる気がする。

形而上学的な事を、武道と言う極めて現実的な肉体の現象として下さる。

宗家・・・
一体、どこまで見通しておられるのですか・・・。

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真の闇

いつも自転車で通る帰り道。

今日も夜の9時半頃、いつもの神社を通った。
「あれ! いつもより暗い。」
と思ったのは、境内の庭に一つある電灯が切れていたから。

塀の向こうは寺があり、墓地が広がっている。
夜通るのにあまり素敵とは言えない条件だが、子供の頃から遊びなれた神社の境内は、いつも自分の気持ちを落ち着けてくれる。

鳥居の向こうにある民家の外灯が暗いオレンジ色に光るだけで、広い境内は本当に「闇」となっていた。
ブランコなどの遊具の輪郭もぼやけるほど。

その闇に入った瞬間、何年振りかに会う親友と会った様な気持ちで、
「ああ、真の闇だあ。」
と思ってしまった。

闇は怖いはずなのに、なぜかすごく心がゆるんだ。
忘れかけていた安心感。
なぜだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
子供の頃に真の闇は知っていた。

今もあるとなりの母方の婆さんちの天井裏。
「となりのトトロ」にも出てきたのにそっくりな作り。

とんでもない所に隠し階段があり、それを上ると様々な荷物の裏に見え隠れする、戦時中に母の兄や弟である叔父たちが描いた落書きがたくさん。

墜落しかけた外国の戦闘機。
日本軍を讃える歌の歌詞。
奇妙な形の魚。
ボールやグローブ。

天上を見れば曲った自然な形の、皮を削っただけみたいな樹木そのものの材木が、縦横に走る。

ネズミもいればヘビもいる。

古びた段ボール箱の上にご丁寧に新聞紙がかけられ、浴衣や着物の古着をさいて作った様な紐で結んである箱が並ぶ。

その奥の方は真の闇の雰囲気がある。
怖いのか・・・・わくわくするのか・・・・。

今でも隠し階段を上がれば、いつでもタイムスリップできる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
もう一つの真の闇。

親父の田舎。
福島県いわき市、海沿いの町から少し山側に入ったところ。

親父の兄であるおじの家。
時代劇に出てくる「長屋」みたいな、4〜5軒の所帯がつながった平屋の集合住宅。
だだっ広い田んぼの前の土地に、6棟ほど建っていた。

おじの家のすぐ前に広がる田んぼ。
その脇にはアシや雑草などの藪が広がる。

ザリガニはいやと言うほど捕れた。
カエルも、ドジョウも、ヤゴも、タニシも。

夕方になればトンボがたくさん飛んでくる。

夜、おじさんの家の前の小さな庭で、おばさんがゆでたトウモロコシを食べながら、バケツの中のザリガニを眺める。
蚊取り線香の煙が流れてくる。

都会ではたまにしか見られないヘビもよく見かけた。
ただたまにマムシも出てくるのが怖かった。

トウモロコシを食べ飽きた自分。
おばさんちの玄関前でカエルを追っかけていたら、長い長いヘビがのたくっていた。

5歳の頃の自分。
好奇心のかたまり。すぐにヘビの追跡にかかる。

しばらく行くと田んぼと田んぼの間のあぜ道に出た。
方向が分からなくなった。

回りに外灯は少なく、遠くの民家の明かりと電柱の外灯が見えた。
足もとの田んぼの水に月あかりが反射している。
闇の中ではそれでも充分な光源だった。

あれは本当の闇だった。
広い広い闇。
虫の声と、たまに聞こえる遠くの車の音。

泣きながら迷い歩いた。
泣きながらでも、当てがなく、気力も萎えたままなのに、なぜかどこまでも歩けた。

どう帰ったかは分からないが、おじさんが住む「長屋式住宅」の一棟に着く事ができた。
子供のことだけに、すぐ近所をさ迷い歩いていたのだろう。

しかし、どこも同じ作りなので、どこがおじさんの家か分からない。

思い切って、あるうちを訪ねた。
「だっぺのうち、どこだっぺ。」
自分はそのおばさんに、泣きながらそう訪ねたそうだ。

金治さん(おじ)とこに東京から甥っ子たちが遊びに来ているらしいと言う事は、周りの人たちに知られていたそうなので、そのおばさんはもしやと思い叔父の家まで自分を届けてくれた。

あの真の闇の中の無力感、絶望感、孤独感・・・。

でもなぜかあの時の真っ暗な闇が、なつかしくてたまらない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
思うに現代人は、真の闇に会う事が無くなって久しい。

どこに行っても明かりがある。
深夜営業、24時間営業の店がどこにでもある。

明るいところだけでは、神経が興奮したままになってしまうのではないだろうか。
それが様々な体調不良の原因の一つでもあるのではないだろうか。

闇にはなぜか安心感がある。

もうそこでは何もできないのだから、完全にあきらめる事もできる。
逆に、日中働かない感覚を使い、外敵などに注意して闇に潜む。

本来持つ人間の感性を開花させるもの、完全なリラックスへと導くもの、
それが闇なのではないだろうか。

良いことばかりの中では、もっと良いものが見えない。
ネガティブな意見かもしれないが、真の闇が見える者にこそ、真の光が見えるのではないだろうか。

そんな事を考えつつ、今日もキッチンの前の板の間で、子供の寝息を聞きながら、考え付く限りの鍛練をしている。

くしゃみとぎっくり腰

中国武術の打ち方で「発勁」と呼ばれるものがある。

人体の重量、人体の構造を最も有効に使い、強大な衝撃力を発生させる身体操作である。

この発勁、実際にどの様にしてやるのか。

よく見られる例えが
「くしゃみ」
である。

もっとも発勁自体、様々なバリエーションがあるので、全てではないのだろうが、その体の操作がくしゃみとよく似ていると言われる事が多い。

呼気による横隔膜やその他の腹筋群の急激な収縮、その力が背部、腕や足、その他全身に伝達されると言う。

中国武術の専門家ではないので、あくまで予想の見地からだが、我々が行う空手の「鞭身」や「沈身」、「極め」などと呼ばれる力の伝達も、「発勁」と似た部分が多いのではないかと考えている。

なぜなら、自然な人体の理に沿った活用法だからである。

人体と言う共通するものを扱っておれば、究めれば必ず似た部分があって然りと思う。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
実際にくしゃみの破壊力(?)はすさまじいものがある。

情けない話だが、自分も過去に味わった事があるもので、
「くしゃみをして、ぎっくり腰になる。」
事がある。

疲労がたまり筋肉が硬くなった時、いきなり腹や胸などの体幹部の筋肉が急激な収縮をしたら・・・・疲れた筋肉は急に引っ張られ、微妙な範囲で筋肉の繊維は切れたりする。

たまったものではない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そんな経験のある人に良い予防法がある。

くしゃみをする際に、壁でも机でもどこでも結構、片手でも良いからすばやくつかまる事である。

くしゃみをして急激に体が曲がる時の力を、壁などで支えてやれば腰や背中、首などへの急激な力が掛かるのを途中で止めてやれるのだ。

近くにつかまれる物が無ければ、自分のふとももの上にでも手を乗せればいい。

これは腰痛持ちの人にとっては相当に有難い予防法だ。
自分も何かの健康雑誌で発見して以来、患者さんに勧めているものである。

「寝違え」や、時には「肋骨の骨折」まで引き起こす「くしゃみ」。
同様の予防動作で回避されたい。

そして、「発勁」や空手の「極め」の要点がここに隠されているのではないかと感じるのである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
腕を他の物に寄りかからせ、その衝撃を逃がせば「ぎっくり腰」にはならない。

と言う事は、「腕」が体幹部に発生した力を逃がすのに重要な要素となっているのではないか。

腕は結構重い。
両腕の重さが常に胸にかかり、腰にかかっている。

さらに腕は、首から頭部の長さよりも長くぶらぶらしているので不安定であり、体幹部の力の入れ具合を常に変化させている。

体幹部から腕へのつながり、その連動感を確かなものにしなければ「極め」や「発勁」へはたどり着けない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ぎっくり腰」の予防法から武術において重要な「腕と胴体の関係性」に気付いた。

そしてそこから更に、新しい「ぎっくり腰の予防法」を思い付いた。

くしゃみをする際に腕の重さをどこかにあずければ良いのであれば、胴体と腕の重さのつながりを切ってしまえば良い。

自分はくしゃみする際に、肩をすくめてみた。

もともとぎっくり腰になるほどの状態の悪さは無かったが、肩をすくめずにくしゃみした時に比べ、腰や背中に急激にかかる重さを逃がす事ができると実感。

そしてまた武術における身体操作、胴体の力を効率よく腕につなげると言う点で、
「肩の操作」
が重要であるなと実感した次第。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
柳川宗家はこれについて、
「肩甲骨の開閉」

「肩の走り」と言う事を言われている。

特に空手の形、
「平安三段」
などは、空手に必要な肩の操作の為に存在する形だと言われていた。

胴体と肩、腕の連動感。

この運動感覚、身体操作を得る為に、太極拳や意拳などでは「站椿功」や「立禅」を行い、八極拳は「劈掛掌」を行い、柳生心眼流は「素振り」を行うのではないだろうか。

もちろん、腕と胴体だけでなく、足も含め全身の感覚の一致を求める訳である。

加えて言うなら、肩の脱力と胴体の連動感を求めるなら、「肘を操る感覚」、「肘と肩」、「肘と胴体」の連動感を求めるべきだと思うのである。

自分の場合、具体的には「肘に重さ」を感じる様にする事。
体幹部で肘を振り回す様な。

自分は上半身に力みがある。
引き続きこれらの事を検証していきたいと思う。

地域社会  つながり

夢。

小学生の頃。
武術の達人になりたかった。

高校の頃。
プロの格闘家になりたかった。

20代半ば。
最高のストリートダンサーになりたかった。

20代後半。
武道と東洋医学の達人になりたかった。

現在。
夢はない。

夢と言うより、現実的な目標を目指し生きる様になった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
生きる目標。

気が付けばずっと続いたもの。
それらを活かし、社会に役立つ。
できればそれで生計を立てる。

武道、伝統医学、ダンス。

これら身体に関わるもので、自分なりに得てきたものを外部に出していく。
少し前までは、内にこもり自分の為の研鑽でしかなかった。

今は自分の為の割合を減らし、他者の為の割合を増やした。
と言うより増えた。

自分が生きていくと言う事を考えた場合、ライフワークと仕事が結び付かなくてはならなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
今日は休み。

午後から自宅で、少しの患者さんを治療するだけ。

昨晩は地元のソウルバーで少々飲み過ぎた。
休前日はよくある事。

10歳も離れていないマスターと、大好きなソウルミュージックやダンスなどの話をする。

隣にいた初老の紳士に一杯、御馳走になったりする。
同じカウンターに座った初対面の方から挨拶され、酒を御馳走になる。

バーと言う特殊な空間での関係。

近くに座ったとても、自分から挨拶するのもお邪魔になるかと微妙な距離感を保つのが良いと思ったりしていた。

年長者の方から話しかけられるだけで恐縮だ。

マスターは小6、高3の娘さんのお父さん。
自分も小2の娘の父なので、聞いてみた。

「授業参観の時ってどうでしたか?」

娘が小1の時の授業参観には行けなかった。
翌日に授業参観を控えた自分は、小学生になって初めて参加する。

マスターにいろいろと話を聞いて、気持のいいソウルを聞いて、少し飲み過ぎた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
本日の午前。

最近は授業参観ではなく、公開授業?、学校公開?などと言うらしい。
昨日の酒が少し残り、やや気分が悪いまま教室の後ろで子供たちを眺める。

小2くらいだと、男女の違いなく、本当に子供らしく皆楽しそうに作品の作成に取り掛かっている。

教室の中には、小2で覚えるたくさんの漢字、運動会の感想文、個人個人の目標、植物の絵日記などがたくさん貼ってあり、眺めているだけで楽しい。

何か、心の中のものが入れ替わっていく感じがする。
例えは悪いが、汚くなった金魚の水槽の水を入れ替えている様な。

子供たちは素直に感性をぶつける。

自分はどうだ。
生きていく事、仕事する事が主体になり、感性が鈍くなっているか、よどんでいるのか、とにかく代謝していない感じがする。

それは自分の為だけの集中した時間でも取り戻す事ができると思うが、それを確保するのが難しい現状である。

だが、一人の集中も良いが、他者、社会と結びついていく事が、自分と言うものを代謝させる重要な要素だと思う。

特にある程度の年齢に入ったら。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
毎朝、通学する児童の為に交通安全の旗をふる係を交代でする父兄。
PTA親睦のバレーボール大会。

など、子供を仲介にどんどん地域社会と連携をとっていかなければならない。

仕事をする。

ライフワークの鍛練をする。

それと共に不可決な社会とのつながり。

人として生きていく、その上で武道、伝統医学をするのであれば、どこかで社会、どんな小さなコミュニティでも良い。

それに役立つ形で、仕事もライフワークも進めなければならない。

武蔵も五輪書の中で、自分よりも大きな社会を重んじろと言ってた。

自分は達人でこそないが、いまだに武道を嗜む者。

なんとなくその言葉の意味を実感する今日この頃。

朝カレー

今朝、某テレビ番組で「朝カレー」を食べる人が増えていると言う特集を見た。

家でレトルトのカレーを食べる人、駅周辺などのカレーショップで食べる人。

その理由は、メジャーのイチロー選手が特集番組で、毎日カレーを食べる、試合前も必ず食べる、と言うものが報じられてから、ぐんと伸びたとの事。

また「朝カレー」を始めた理由が、その朝の番組の調査によると、3位はイチロー選手にあやかって、2位は忘れたが、1位は手軽に食べられるからとの事。


2位は確か、元気になるからと言ったものかと思ったが、また朝カレーの効果について、香辛料が代謝を促進し、頭脳が活発になり、仕事前にちょうど良いとの事。


自分はカレーじゃないが、毎朝スパイスティーを飲んでいる。

インド料理屋で「チャイ」と呼ばれるもの。

図体の割りには、寒がりで胃も弱く、血圧も低い(昨年末の健診でお墨付き)ので、漢方の原料である生薬を日頃から活用しようと言うものの一つである。

スパイスはそのほとんどが漢方薬で使われる。

食事のアクセントだけでなく、医療に用いられてきた。

自分が作るものは、ショウガとシナモン(桂枝)をベースに、カルダモン、クローブ(丁字)、ナツメグ(にくずく)などを入れ、それにフェンネル(茴香)やキャラウェイ、コリアンダー、メース(ナツメグの皮)などを気分で使い分けている。

作り方は簡単で、各スパイスを適量入れて中火から弱火で15分位煮て、茶葉、牛乳を入れ、好みでハチミツを入れる。
      
(毎日使っている石のスパイスクラッシャー。そのあとよ〜く煮込みます。)

ただスパイスの適量というのが、一番の悩みどころで、少しずつ加えて確かめるしかない。

あとは好みにより調節する。
慣れてくると、ガバッと適当につかんだ量で適量になる様になってくる。

一つだけ注意する事は、カレーもスパイスティーも、使われているスパイスのほとんどが、漢方的には体内を強く温めるものだと言う事。

だから、酒好きな人、普段から辛味をよくとる人、暑がりで汗かきな人などは、あまり香辛料をとり過ぎない様に気を付けられたい。

温まり過ぎ、熱がこもり過ぎで体の不調の原因にもなりかねない。

だいぶ日本的にアレンジされ、スパイスの量も調節されていると思うが、カレーもスパイスティーも、もとはインド周辺の風土の食事。

気候条件などからなる民族的な体質に合っているものと思うが、日本人はその辺を一考すべきなのかなと思う。

とは言え、朝カレーならぬ「朝チャイ」が流行らないかと思ってしまったりする。

大事な人

もう何ヵ月、空手着に袖を通していないのだろう。

いつもの自分の稽古は、普段着だ。

近所での買い物から帰った後、突然気付いた感覚で、サンダル履きのまま庭の巻きワラや砂袋など打ち始めたり、琉球古武術のいろんな道具を使い始めたりする。

家の中ではキッチンの板の間が続く場所を利用して、柱を目標に突きや蹴り、体当りなどをしてみる。

家が傷むので当然当てないが、それでもかなり対人の感覚がイメージできる。


そんな風にばかり稽古しているので、道着に着替える事が無い。

道着を着る。

精神的な面でも大きな意味合いがあるだろうが、自分はそれにも増して、肩のリラックスを得やすいなどの、身体感覚的に武道に有益な意味があると思うのである。
―――――――――――――――――
その様な一人稽古の時間が経つにつれて、かつての様々な師、先輩、しのぎを削った好敵手たちへの有り難みを思う。


家庭、仕事、その他の関係全て。

大事な人の大事さが、時間の経過と共に、その重さを増してきている様な気がしてならない。

今、入院中の親父に対してもそう思う。

自分が武道、医学をやる以上、否、ただ生きていくだけでも自分にとって大切な人は、歳を重ねるごとにその大切さの重みを増していく様に思えてならない。

それだけは決して忘れる事の無い様にしていきたい。

それが自分自身を大事にする事なのではないかと思えてきた。

他人とつながる感動

前の日記、無感動な進歩とは逆に、感動的な事がある。

治療業務の中で、特にバレエダンサーの方々を治療させてもらっている時だ。

バレエと言う芸術性、特殊性により求められる厳しい姿勢、立ち方、動作。

これらを支えるには、もともと天才であるか、そうでなければ人体と言うものを徹底的に研究する必要がある。

人体に関する共通な「理」。

それは自然な関節の状態や、力の抜き加減、入れ加減など、知っておかなければならない知識。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
例えば、足首が痛いバレエダンサー。
足首はバレエ障害と言ってもいい位に多い。

足首まわりの治療をする。
でも必ず再発する。 
なぜか?

使い方が「理」からはずれてしまっているからである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
施術の中で正しい動き、関節の角度などをこちら側がしてやる事で、体に覚えこませる下地を作る。

他人から動かされる動きでも、実際に体に起こる感覚は認識できる。
バレエで身体感覚に強く意識を向けている人たちである。
体の理解力は早い。

その後、立たせて自分の力で体感できる様なコツをポイントで示していく。
時には、自分が直接体の部位を動かしてやる。

体への注意力が強いから本当に変化が早い。

つま先立ちでふらついていたのが、何の支えが無くても平気で片足の重心移動をこなし、おしゃべりしながらでも、楽に、勝手に動かされている感覚になると言う。

理想的な身体操作になると、最小限の力で行う様になるので、ボディラインも変化する。

今までふとももが外に張り出してラインが美しくない、と気にされていた方たちが、回数を重ねるごとに体型まで変化するのは本当に
「やった!!!」
と言う感じだ。

なんだか自分が稽古でよい動きに進歩した時より、よっぽど感動的なのである。

人間とは、他人とつながった!!と感じる時に一番幸せを感じるのではないだろうか。
自分が他人とつながる事のできるツールは「治療」と「身体の操作」である。

今週も多くのバレエダンサーの方たちに来院して頂いた。
常に勉強、進展を忘れずに、大事に大事にしていきたい。

また来月にある、皆さんのバレエ発表会を見に行くのが楽しみである。

無感動な進歩

順突きの練習をしていた。
武道具メーカーのイサミさんのチョップブロックと言う物に打ち込んでいた。

20?×30?×15?位の丈夫な立方体の袋にポリエチレン(?)の小さな粒がぎっしりと詰まっている。

軽い重量の砂袋といった感じ。
袋の固さを増す為に、自分はこれにエアーガンのBB弾を足して、内容量を増やしている。

打ちっぱなしではなく、腰の切り戻しを使い、浅く鋭く打ち込んでいた。
金属音の様な高い音がした。

かつていた兄弟子に聞いた記憶がよみがえる。
サンドバッグやウォーターバッグを鋭く打てると金属音みたいな高い音が出ると。

その様な音を初めて聞けた。
自分の順突きの切り戻しで。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
普段の治療の仕事の中で、患者さんから学び、仲間と治療し合って学び、人体の動き、仕組みが自分なりに深まっている為だと思う。

さして稽古していないのに、確実に進展が続いているのを感じる。

まぁ、今はどこの道場にも行けていないので、組手で確認したわけではなく、一人稽古の上での話だが。

順突きが良くなり、前手の突き、その他蹴り、様々な転位(足捌き)を用いながらでも良くなっていた。

強く、速く、楽に、自在に打てる感じがした。

だけど、あまり嬉しいとか感動とかは無かった。
今は頭の中が、ほとんど仕事の事で埋められているからだろうか。

疲れもあるが、優先順位の意識がそうさせるのだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
前は武道に稽古していくのに、勢いやら意地、誇りなどが強烈にあった。
今も無くしたわけではない。

いまだに研鑽を続けるのは、好きだからに他ならない。

しかし、それでも生きていく為には優先順位がある。

小さいながらもそれなりに栄えてくると、人も雇わなくてはならない、教育しなくてはならない、体が不自由な患者さんの往診や、オフィスへの派遣マッサージ、その他スポーツ選手やダンサーの方たちへのトレーナー業務、また院内の業務をいかに効率よく進めるかなど、日々話し合いの連続である。

正直、忙しい。

仕事も上向きになってくればなったで大変なものだ。

休日も子供や家の事で精いっぱいだが、その上で自分の勉強、自分の鍛練をしなくてはならない。

多くの先達たちも皆、似たり寄ったり、同様の事を乗り越えて、それ以上の努力をし、流儀を継承し、守られてきたのだろうと思う。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
入門して間もなく、柳川宗家に言われた事を思い出した。

「努力しているのが分かる内はまだまだ。 努力しているのが普通になり、分からなくなる、意識しなくなったら、本当の努力と言えるね。」

自分の意地やら小さなプライドなど考えてるヒマも無い位の状態にこそ、到達へのカギがあるのか。

年齢と共に、若い頃の鍛練の仕方ができなくなり、変化を余儀なくされる。
稽古に対する気構えもそうであるのかもしれない。

やる事はやっていても、激しさがあり過ぎてはいけない年代に入ってきたのか。

自分が今日感じた、順突きの感触の良さ。
それに対する無感動。

少しは努力が無意識化されてきた兆しであれば良いなと思う。

健康第一

今週、親父が急性膵炎で入院した。

胃の丈夫な親父が、めずらしく食当たりで胃が痛いと言ってきたので、仕事から帰ってすぐに鍼灸で治療した。

治療の中盤で、腹が鳴り、胃の痛みが治まってきたと言って、その晩は床に就いた。
鍼灸で治まる程度だから平気かと思ったが、翌日また痛み出した様で、病院に行ったらそのまま入院となった。

自分とは違い、親父はもともと体が頑健で、酒飲みの大食漢である。
飲み過ぎの食べ過ぎで、膵臓がくたびれきっていたのだろう。

胃が丈夫な証拠に、内視鏡検査では胃は綺麗で、外見上は全く問題無かったとの事。

胃など壊した事のない親父。
労働と暴飲暴食。
その上、七十も超えればだいぶくたびれてくるのだろう。
しょせんは人の体も消耗品だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
親父は福島県で生まれ、東京に出てくるまで遠洋漁業の船乗りだった。
東京に来てからはずっと大工で生計を立ててきた。

体は小さいが地力があり、前に一緒に仕事をしていた時、自分では持ち上げる事ができなかった庭石を、こういのはコツなんだと、持ち上げて運んでしまったりしたのを思い出す。

日曜の休み以外、親父が仕事を休んだのは記憶に無い。

自分が年をとればとるほど、親父の偉さが分かってくる。
昔の親父の行動、仕事をしている姿、その取り組み方などの細かな事をしょっちゅう思い出す。

なんだか時間が逆行している様だ。

そんな親父もガタがきたのかなと思うと、自分の年齢と今の状況を考えずにはいられない。
今の自分と同じ年の親父には、到底追い付けない。

そんな親父にも少しでも体を診てあげられると言う事は、本当に良かったと思っている。
退院してきたら、また何かしてあげられる事がある。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
自分も不惑を迎え、体には気を付けるべしとの思いが強くなってくる。

昨年の夏だったか、久し振りに電話をかけてきた友人を思い出した。
小学校からの地元の仲間だ。

彼とは数年前に結婚披露宴の席であったきり。
少し遠いところに引っ越して、仕事も忙しいのだろうと思っていた。

仕事の帰り、ちょうど電車の乗り換えで、外にいた時に携帯電話が鳴ったので出てみた。

「もしもし〜、○○だけど〜。」
と言う、かなり間延びした覇気のない声だった。

聞くところによると、当時39歳で脳梗塞から半身麻痺になってしまったのだと言う。

それも患ってから1年間リハビリをしてからの事だったので、まだ38に届く前に発病したのだろう。

電話をしてきたのは、リハビリなどにマッサージや鍼灸が良いと聞いたが、どんな手続きをすれば良いのか、どんな治療か、効果は、などの質問を、鍼灸接骨院の院長をしている自分に聞けば分かると思っての事だった。
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彼は、自分の母親と妻子と共に住み、建築現場の監督をしていた。

その中で突然の発病。
闘病生活の大変さ、これからどうするべきか、などしばらく話した。

声だけでも信じられない変わりぶり。
力の無い間延びした話し方に、その心身の苦悩を強く感じた。

彼が何度も繰り返し言っていたのは、

「本当に健康が一番だよ。体だけ。普通が一番だよ。普通の事できないんだもん、俺。」

と言う事だった。
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人間、何でどうなるかなど予想もつかないが、防げるものは防ぎたい。

事故、天災などは無理かもしれないが、病ならある程度はコントロールできるのではないか。
東洋医学を始めとする予防医学は、これからの世に非常に大切なものだと思っている。

仕事の方でも治療院だけの治療でなく、身体の自由がきかない患者さんの往診、また近所のオフィスへのマッサージ派遣などに取り組んでいる。

特に、今は病んでいなくても、常に体の不調、不快感、精神的にも疲労が蓄積する、勤労者層こそ、予防医学の対象となる。

重くなる前に、自由を失う前に、自らの一番大事な道具、自己の身体と言うものの手入れをしてもらいたい。
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武道の身体操作、そこから発生する心の在り様が、日々の治療に活かされる事を有難く思う。

治療とて真剣勝負である。

毎日毎日、あれは良くなかったな、完全な負けだと思う事あり、あれはよかった、患者さんと全てを共有できたと思う事あり、うれしい事、落ち込む事、激しく入り混じっている。

東洋医学の先達たちがよく言われる事。

「治そうと思うな。治療しようと思うな。」

無心で行え、我欲を捨ててかかれと言う事なのだろう。

そう言う瞬間が無い訳ではないが、それはある程度のレベルに達した人の言う事であり、まだまだ自分などが言えるものではない。

まだまだ「勢い」を持って治療に臨んでいきたいと思う。

武道でも医療でも、みちを修めるには「勢い」が大事だと思うのである。

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