武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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壮にして学ぶ

自分の限界はまだまだ先だろうと思いたく、何かの励ましを探して昔から読んでいた本を読み直したりしている。

部屋の窓は、開けるとすぐ大きな木があり、色々な鳥が集まってくる。

鳥たちの休憩所になっているらしく、飛んでくる鳥の羽音、鳥たちが木の中を動き回る葉が擦れ合う音、さえずる鳴き声。

のんびりと本を読む。
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今年の前半は今までにない体調不良が続き、心身とも一からの作り直しを決意して、遅々としてではあるが鍛練を続けている。

続けていて思うのは、本当に動かない部分や弱い部分、弱った部分が多いなと言う事。

自分の至らなさで、伝統武道的鍛練を偏った形で10数年行った為、かつてはよく動いた部分も、力や機能がだいぶ衰えたと感じるのだ(それによってでしか得られなかったものもお多いが)。

それを感じている事は、それだけよい方へと修正されつつあると言うのは分かるが、年齢的にも大丈夫か?と思ってしまうのである。
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そんな時タイミングよく(?)、能の極意書「風姿花伝」を読み返した。

著者の世阿弥いわく、人が上達するのはせいぜい34、35才までだとの事。

「さるほどに、上がるは三十四五までの比、下がるは四十以来なり。」

そんな事を能の巨人、武道にも相当の影響を与えた大哲人に言われれば、

「俺もう30半ばの頃の実力で終わっのかな。しかも40以降は落ちるだけだって言うし・・・。」

などと思ってしまう。
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確かにある年令までに肉体的、精神的にある程度、鍛えられていなければならないものでもある。

そういう意味では、青年期は直接打撃制の競技格闘技に打ち込み、20代後半から30代前半は、半ば道場に泊り込む様な形で兄弟子に稽古をつけてもらっていた事を思えば、そうそう悪くは無い。

しかし、稽古量と実力がどれほど向上したかは、まったくの別問題である。

今の技術を思えば、全然高くは無いが、今後の稽古の基礎となる感覚だけは身に染みたと思っている。

であるから、本当にこれから!と思い込んでいた矢先に世阿弥のあの一言。
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人生50年生きればよかった時代。

平均身長も低かっただろうし、体格は現代人の平均の方がかなり上回っている。

栄養状態、衛生環境もいいし、肉体的には相当の余裕ができたに違いない。

ただ一つ、自然に身近で、生と死も身近にあった時代にあり、現代よりその精神的な熟成度、感性の細やかさなどはかなり早熟で、完成度も高かっとだろうと思われるのである。
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幕末の志士たちに大きな影響を与えた儒学者、佐藤一斎は、

「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」

と、歳をとってからも学び続ければ、その先に必ず功を現すことができると、非常に希望的になれる言葉を残している。

世阿弥は身体文化の観点から、肉体的衰えは隠せない現実を語った。

しかし、派手な動きは消えても、鍛えられた内面より出る雰囲気、場の空気をつかむ様な”味”が出るとも言っている。

また佐藤一斎の言うとおり、勉学も継続すればそれ相応の力になる。
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現代は様々な恩恵により寿命が延びた。

昔に比べ時間的余裕が少し伸びたのだから、それに合わせて自分も伸びていけばいいのかもしれない。

現代は便利だが、人間のもっとも基本的な感性とか魂といった部分の成長させることが非常に難しい環境になっていると思う。

そんな中で進歩していこうとしても、やはり特別な環境に身を置かない限り、だいぶ時間が掛かってしまう。

だがそれも良いと思う。

子育てにしたって、若いうちにチャレンジして行き詰ってしまうよりも、たくさんの経験を経て、精神的にもそこそこ熟してきてからにした方が少しはいい。

現代医学も進歩し、高齢出産もリスクはあると言えど、技術的にはかなり整ってきていると思う。

時代のニーズからも必然的にそうならざるを得ない。

出産、育児と言うと女性だけの問題だが、男性が社会へ出る、大人として認められるのも同様だ。

昔は10代の前半位から成人の儀式もあったが、今はなかなか死ぬかもしれないと言う状況は無いので、その様に生き急ぐ必要もない。

学校で教育を受けるだけでなく、広く色々なものに触れる機会が必要だろう。
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とまあ休日にいろいろと考え、自分の年齢的な限界を払拭すべく、いろいろな理屈を思いつき、これからますます、老いてなお盛んな程に自分のやりたい事をやりたい様にやっていこうと思った次第。

様々な制限もあるが、まずは自分の気分が良くいられる様な稽古をしていきたい。

今まで感じてきた窮屈な思いや拘束感は、そのほとんどが自分で作っているもの。

打開するかしないかは、自分が決めること。

そんな風に、案外簡単なのかもしれないが、凡人はまたいつかつまらぬ事で自分にブレーキをかけてしまうのかもしれない。

いろいろな良書では、現代にあっても昔の哲人たちの考えに触れる事ができる。

折に触れ、先人たちの言葉に耳を傾けてみれば、迷う時間も比較的短くなるかもしれない。
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己こそ己のよるべ

「己こそ己のよるべ(寄る辺) 己をおきて誰によるべぞ よく整えし己こそ まこと得がたきよるべなり」

日本少林寺拳法の教えの代表的な言葉。
少林寺拳法はその名のとおり、お寺の教え、仏教の教えがある。

この言葉も、もとは仏教の宗派にある教えであったと記憶している。

中学1年の終わり頃から高校2年まで、少林寺拳法を習っていた。

少林寺拳法は他にも自分を見つめなおし、また理想だけでなく、生きていく上での現実を示してくれる、本当にいい教えがあった。

何事も最後は自分で決めなければならない。
自信も無いし、迷いもする。

けど、全ての答えは自分で見つける、自分で出すもの。

答えと言ったら大げさかもしれないが、最終的に自分が最も納得できる方向性と言う感じか。
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武道とは、基本となる技術があり、応用、実戦で活かせる様になるのを目標とするもの。

しかし、その学び方は大きく分かれる。

幕末の剣豪、北辰一刀流の千葉周作(弟の千葉定吉は坂本竜馬の師ですね)は

「技から入るは上達遅し、理から入るは上達早し」

と言って、型の動きや形などの正確さよりも、その原理を体感し体得する事が一切の技に通じる近道との考え。

また型や基本には一片の無駄も無く、それを正確に真似する事から技の原理が身に付くので、最初から自分勝手に動くのを戒める考え方の流派も多くある。
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どちらのアプローチ法でも、
「これでよいのだろうか。」
と、自分に迷いが生じ、自信が持てない事がある。

いずれの方法にしても、結局は「自分」で試行錯誤しなければならないのは同じであろう。

自分の場合は、初めの頃はそれだけ難易度の高いものを修得しようとしているのだから、自分勝手なやり方は慎み、正確に学ぶべきだと思い、かなり自分にブレーキを掛けていた。

心身両方への、様々なブレーキ。

この時期は数年も続き、非常に窮屈であったと思い返す。

もっと自分を出せなかったのは、自分の中の「自分」が弱かったからだと思う。
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最近、仕事である治療でも、武道でも、誰かに伝えていかなければならない年代に入っていると自覚する。

今現在がまだまだ下手であろうと、長年それなりにやってきた経験と知識は、それなりのものもあろうと思う。

それなりのものでも、それなりに役立つ事もある。

これからも継続し、自分が進歩していきたい気持ちがあるなら、そうした作業もやっていくべきだろう。

どんなに難しく、自信が持てなくても、
「やるか、やらないか」
と言うところだけは決心しなくてはならないもの。

その様なところはどんどん「自分」を出していくべき、いや出さなければ何も動かない。
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伝統と言う名のつく武道や鍼灸などの医学。

学び方はいろいろあってよいと思う。

先に基本を固めるのか、先に実戦から入るのか。

実戦から入るにしても、最低限の基本はいやでも身に付けなければ何もできない。

基本を固めるにしても、その検証をする為の実習がなければならない。

自分は趣味と仕事も兼ねて、ストリートダンサーたちと接する事が多い。

ストリートダンサーたちは、いい意味ですぐに実戦から入り、その中で自分で気付いた点を修正していく。

まずは踊る。とにかく踊る。楽しむ。

理想的な学び方、取り組み方をしているなと思う。

実際に動いてないと、問題意識も低いもの。
自分で困らないと、やる気など起こるものでない。
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かつて学んだ武道の師も、武道は「帰納的修得法」であるべきと言われていた。

先に結果を知って、それに近づく為の道を試行錯誤するのがよいと。

現代科学はほとんどがその逆の「演繹的修得法」の様に思う。
段階的に学び、最終地点に近づいていくと言うもの。

科学、勉学はそれでもよいと思うが、ダンスや武道などの身体操作の関わるものは、理論もあるが、体を動かすのは結局は「感覚」である為、結果を先に知って、それを追いかけるもの。

先にそのフィーリングの一端に触れておく事、なんとなくこんな感じと言うものを体感しておくのが先決であると思う。

体を動かす事もそうだが、人間関係なども「感じる事」の積み重ねで学んでいくものではないかと思う。

本当に納得したいのなら、自分で答えを見つけなければならない。

とにかく感じること。

感じる為には、自分から前に出て行くこと。

腰が中心

武道空手の動きは、腰や腹が中心になって構成されている。

丹田、五体の重心の中心であり、また上半身と下半身のつなぎ目、全身を操作する体幹部の筋肉が集まるところ。


その様な腰の操作は、移動の手段であり、相手の攻撃を回避する手段であり、自分の攻撃の威力を増し、自在に操る手段である。

肩など上半身が上手く脱力して調和していれば、あとは腰(骨盤全体)の動きだけの意識で全ての動きが操作できる感覚である。

全身の動きの司令塔である。

その為の腰の開発法、鍛練法は、ダンスのアイソレーションと、腰の後ろ反り(胸は反らない)と胸だけの反りの動作を注意深く行なう事。

仕上げに飛び込み蹴りなどするのも良い。

移動、体捌き、攻撃。

詰まるところ、武道の動きは、この3つ以外に無い。

それらが一体化して一挙動に見える事もあるが、基本はその3段階を押さえなければならない。

またそれ以前にその操作をきちんと理解できる身体感覚や、それらの部位の基礎筋力を養っておく必要があるのは言うまでも無い。

近日中にこの腰、骨盤全体の操作の動画だけでも撮りたいと思っている。

内容は転位(足捌き)、転体(体捌き)、転技(手捌き)の3段階、3種類を始めとした応用技からの全体像の解説と、その為の胸と腰の強化、そして腰の操作性を増す為の体操法などになると思う。

できるだけ武道空手の動きをシンプルに分かりやすくするのが、自分の仕事であり、やりたい事だと常々思っている。

それで治療やダンスなどにも活かし、いろいろな人に役立てれば本望である。
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