武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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自信

自信と言うもの、これを維持させるには努力プラス調整力が必要だ。

仕事である治療。

伝統医学の理論と実践など日々確認していく作業をしてこそ、日頃の治療をやりとおすぞ!と言う自信が生まれるもの。

全ての患者さんを直せる訳ではない。

そう言った困難な治療と言う道をやりとおす「気力」は日々の自分の修練によってでしか生まれない。

武道。

武道もそうだ。

武道は誰にでも勝てる!と言う自信ではなくて、自分の今の問題点をしっかりと把握し、次に何をしていくべきかがおおよそでも掴めていると言う事が、将来の自分は必ず進化していると思える、そういう自信が大事であると思う。

ともかく、全てにおいて自信というものは、日々コツコツと努力を重ねる事でしか生まれないし、維持できないものだと思うのである。



また上手く調整する配分も大事である。

一日たった24時間。

自分の限界を無視した強引な時間の使い方は、自分の心身を乱し、良くない結果を招く。

若い内は許された事も、それなりに歳を重ねれば自ずと限界と言うものが出てくる。

仕事の為、家族の為、大切な友人の為・・・・。

限られた時間を費やす優先順位と言うものがあり、それを無視しては巡り巡って自分がダメになる事と言う事が、今更ながらようやく理解できてきた様に思う。



「時間とは自分だけのものではない」

と強く思う。

仕事場、家族、その他の人とのつながりの中で生きていかなければならない。

ほんのちょっとした事をするにでも、なかなか進まず苦労する事がある。

若い内は気が付かなかったが、「一人の時間」を作るのには、それだけ周囲の人の時間を奪っている事もあるのではないかと感じるのだ。

良いアイデアを生んだり、集中して自分の作業をするには、「一人の時間」が必要である。

ナポレオンだったか、その事を「少しの時間と孤独」が必要だと言っていた様な。



伝統医学の勉強もしたい、武道の稽古もしたい、その他にしなければならない事もあるが、まずは自分の心身が良い状態に維持できているか、と言う事を最優先させている。

武道の本質は、相手の命を奪う事よりも、自分の命、周りの者の命を守る事にあると思う。

すごく良い日があったり、すごく悪い日があったりと言うよりも、毎日が平均点である事の方が大切だと思う様になった。

調子が良い時はいいが、自分が調子が悪ければ、患者さんや仕事仲間、家族、友人たちにも迷惑をかける事になる。

大きな得はしなくてよいが、損は例えどんなに小さな損でも無い方が良い。

武道も医学も生活の一部であるから、日々やるべき事をやり、かつ無理をしない事。

そう強く思うのも、自分が極端でせっかちな性格だったからだと思うのだが、良い縁を呼び込み、毎日を良いものにしていくにはそれが一番だと思うのである。

なまける心は勿論だが、調子が良いからといって何事もやり過ぎる、むさぼる心にも注意していきたい。
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アニキ!?

本日の夜9時半頃に、先日のブログ(10月11日)の中で少し触れた、かつての空手道場の先輩から突然の電話。

海外で仕事をされているので(日本とあまり時差は無い)、国際電話なのにも関わらず、気が付けば午前12時を回っていました・・・・。

何を話していたかと言えば、全て空手、武道に関わる話。

中でも、近い内に自分の空手教室(道場)を開こうとの話で盛り上がりました。

タイムリーな事に自分が近い内にと思っていたところ、アニキも同じ事を考えていたとの事。

単なる技術だけの話だけでなく、道場を持つと言う事と社会的な役割、若者に技術の研鑽もしてもらいたいが、人生の道筋をどう付けてあげるか、その人の人生の中で「空手の役割」をどうつけてあげる事ができるか、などなど、自分たちが道の途中で思い、悩みした事をもとに最善の方向を互いに話しました。

自分はこれから稽古会を定期開催したいと思っていた矢先、また随分とアニキに教えられました。

道場で稽古をつけてもらっていた時の様に、時間を忘れて話続けるのは、かつて道場で夜中まで稽古し、近所のアニキのアパートの部屋に泊めてもらっていた事が思いだされる様な展開でした。

本当に好きな事だと、平日の夜も何も関係なくなっちゃうんですよね。

まぁ、このアニキ、空手の技量も道場の誰もが認める腕前でしたし、性格も常にポジティブで皆から慕われていましたが、その器の大きさ故の(笑)超マイペースで、そんな彼を私は
「大王」
と呼んでおりました。

今年中に日本に帰国するかもしれないと聞き、その時は是非また一緒に稽古しようと話を締めくくりました。

今夜はその大王健在であるのを確認し、超ポジティブな気持ちで眠りに付けそうです。

一人で朝食

今朝は遅めの朝食をファミレスのデ○ーズで済ませてきました。

家で食べればいいのですが、たまの気分転換は大事なので、平日には決してできないささやかな贅沢を楽しみました。

一人朝食をとりながら(妻、娘は実家に遊びに泊まりに行ってるので)、いろいろと考えました。

毎朝、出掛けに見る父の後姿。
台所のテーブルで朝食をとっている親父の姿がふと思い浮かびました。

私は見た目と違って胃の弱く、起きてすぐに食べられません。
いつも紅茶(冬場は特にスパイスティー)とパン一枚位が精一杯で。

今日は起きてからゆっくり時間を過ごして体がたち上がってきたので、普段はありえないごはんと目玉焼きの朝食を頼みました。

父も毎朝ごはんと味噌汁なので、ちょうどその姿をかぶった訳です。
その姿を思い出し、いつも何を考えて朝飯食ってんのかなぁと思っしまいました。

父は70代半ばでまだ働いています。
保護司と言う職です。

刑務所から出所された方々が一時(数ヶ月〜数年)寝泊りする寮の様なところの雑多な世話係といった感じです。

普段は寡黙ですが外では愛想がよいらしく、療に住む方たちからいろいろとお土産をもらってきたりします。

警察とも関連の強い仕事内容で、気付かれしてるんじゃないかと思いますが、それなりにうまくやれてる様にも見えます。

もともと船乗りや大工などやってきて、しかも東北人と言う事もあるのか、我慢強く根気がある様に思います。

そういう事を考えながら、また自分と比較してしまい、もっと頑張らなければなぁと思ってしまいました。

それも両親と同居していると言う事が、余計にそう思わせる様です。

働いてはいますが、家を守ると言う事の細かい事に無頓着な私は、両親には及ばず、自立して家を買ったりしている周りの友人たちにも及ばないなと思います。

でも、年老いた親と同じ場所に住んでいる事で、余計な心配もかけずに済んでいるのかな、

孫の顔も毎日見られるしそれも親孝行かな、

治療家なのですぐにいざと言う時は、体を診てあげられるからな、

などと自分で言い訳を考え出し、まあいいかと言う事にしてしまいます。
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最近も仕事の合間の時間を縫って、体調の管理と身体操作の向上を兼ねた自分なりのゆったりとした鍛練法を行っています。

中国武術の内家拳の様に、かなり内功的鍛練法になっています。

まずは具体的なイメージ(全身的、部分的)を作り、体に送り込むと同時に体を動かしてそのイメージと一致させます。

逆に体の動きから理想のイメージが変化する事もあります。

そして日常生活でも、武道の動きでも快適な身体のあり方(静的にも動的にも)を求めていきます。
そうした流れが根底にある体操、運動です。

それは武道的動きであり、武道的ではない動きもあり、東洋医学的であり、ストリートダンス的であり・・・。

それから実際に武道の技術を練習したり、基礎体力的な鍛練をしていますので、多くの空手の型や基本動作をやる事は減っていきます。

今後ますますその傾向が強くなっていきそうな感じです。

自分のスタイルは、できるだけ核心の部分を稽古して後は応用と言う様な、中国武術の意拳の様な体系に近くなっていくなと考えています。

それによって得られた感覚を試す時に、空手の基本動作や型を用いると言うやり方になっていきそうです。

その中でも、現在学ばせて頂いている琉球古武術などは、多くの型が存在し、扱う武器の種類も多いです。

これは武器術をやる事によって、素手の技術が発達する事が多いので、素直に古伝の型を習い、そこから自分のものを引き出していける様にしたいと思っています。

道具を扱う事で得られる効果。

技術以前に整えなければならない、身体の基本的操作。

これらを主軸に自分なりの体系を作って参ります。
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武道でも伝統医学でも伝えていくのには、理論や技術だけでは難しいと思います。

”伝わっていく”のは技術や知識ですが、”伝えていく”のは「人」です。

たとえ圧倒的なスキルを持っていたとしても、伝えていく人の気持ち如何によっては誰も人はついてきてくれません。

上下の関係も、横の関係も作る事できずして、何かを伝えていく事は無理でしょう。

”一人勝ち”はできない世の中になってきたと言う事でしょうか。

世界的な経済でも、昨今の中国関連の問題から、中国が”レアアース”に輸出規制をかける事で日本への対抗手段としている様ですが、それは回り回ってかえって中国が損をするだろうとの話からも、一人勝ちって難しいと思わされます。

昨日、あるダンススタジオを訪ねました。

仲の良いダンサーがそこでインストラクターをやっており、彼に手渡す物がある為、しばらくレッスンの様子を見学させてもらいました。

ビギナーのクラスでしたが、身振り手振りを交え、とても丁寧に指導しており、指導している彼本人が一番楽しそうにしていたのを見て、

「これは確実に伝わっていくな。」

と思ったのです。

人に何かを伝えていくって、こういう事だ。

自分自信が楽しんで、やりがいを持って臨めば、自然と人の輪は広がるのだ、
単純に人数の多さではない、人のつながりと言うものができていくのだと思うのです。

そんなダンサーの彼らがその様にできるのには、自分を充実させる為、時間を惜しんで様々な活動をしているからです。

常に学んで、常にチャレンジしていなければ、人に伝えるものなんて無い。
人に伝えられるエネルギーも無い。

自分もいろいろありますが、自分のものを伝えられる様に自分の事をしっかりやっていこうと、気持ちを新たにしました。

さて、残り少なくなった本日の一時的独身の時間。
これから衣替えの後半と漢方作りに当てるといたしましょう。

HIPHOP オールドスクール

先週は今までで一番多くダンサーの子達と会った一週間だったと思う。

と言うのも、自分が所持しているビデオテープ(!)で、25年ほど昔のブレイクダンスの映像(約4時間)をなんとかDVDにして、若いダンサーのこたちに渡したかったからである。

先週の木曜、仲の良い地元の若手ダンサー2人と会い、そのDVDを手渡し、土曜にはまた別のダンサーのこがスタジオで指導中のと言うところをお邪魔し、翌日の日曜にはうちに取りにきてくれた子、レッスン指導の前に待ち合わせた子、また別の子のレッスン後のスタジオにお邪魔したりと、多くの仲良くしてもらっている若手ダンサーたちと会った。

なぜそんな事をするのかと言うと、HIPHOPと言う文化が生まれて30年位、それが生まれて間もない頃から目にしてきて、また当時の映像などもそれなりにあるとすれば、今、HIPHOPに情熱を傾けてくれている子達に是非、観てもらいたいと思ったからだ。

約30年の歴史が刻まれ、特に創世記の古いHIPHOP(ダンスや曲)はオールドスクールと呼ばれ、新しいものと区別されている。

技術などは昔に比べ、現在の方が格段に進化しているが、それでもHIPHOP創世記のダンスや曲などには、今見る者も引き付けるなにかがある。

それだけではなく、技術的にも原点を知れば、またさらに良いアイディアも浮かぶのではなかろうかと思うのだ。
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これは武道でも、長い歴史の中で「失伝してしまった技」などと呼ばれるものには、とても好奇心をかきたてられるもので、残せるものなら残して、次の世代にも手渡していきたい。

その様な原点の姿を見て、最初に始めた者たちのエネルギーとその想いを感じてもらい、さらにさらにエネルギーにあふれ、よりその道を楽しんでもらいたい。

武道や鍼灸をはじめとする伝統医学なども、少しでも良い「文化的資料」があればより多くの人に見て、感じてもらいたい。

文化、伝統と言うのは、その核心である技術や理論も大事だが、なにゆえその様な文化が生まれたのかと言う、人の想いを次の世代に手渡していく事によって、より確かに伝わっていき、残っていくのではないだろうかと思うのだ。

伝わっていくのは「人の想い」。

残っていくのも「人の想い」。

熱い想い。

温かい想い。

何事もそこに人の情と言うものが通っていなければ、その時限りで終わってしまい、何も残らないと思うのである。

まあ、そんな御託を並べているが、一番の理由はダンサーのみんなは非常にモチベーションが高く、努力の仕方なども、人間的にとても刺激を受ける事ができ、自分のなえそうな気持ちを元気付けてもらえるので、みんなに会いに行きたくなるだけなのだが。

若いダンサーの子達より少しだけ昔のHIPHOPを知っている。

治療家として微力ではあるがサポートできる。

そういった事で、いつもエネルギーをもらっているみんなに恩を返していければと思っている。

歳をとってよどみがちな自分の心の中に、いつも新鮮で勢いのある風を吹き込んでくれるダンサー、DJ、その他HIPHOPに関わるみんなに感謝。

エネルギーとシャーマニズム

漢方薬を調合している際にふと思い出した。

ものの本によると、様々な生薬は呪術にも用いられたとか。

なんでもまじないの様なもので、不老不死を得ようとしたり、死んだ者を生き返らせようとしたり、肉体や精神に特殊なパワーを与えようとしたり、様々な目的で生薬が用いられていた。

マンガなどでも魔女がトカゲやら奇妙な植物やらを煎じて、魔法の薬などを作る場面を見かけることがある。

生薬と言っても実際は、死んだ植物や動物であり、それらを乾燥させたり、黒焼にしたものなどを用いる。

自分は病気や怪我などに対応する方法しか知らないが、現にチベット伝統医学ではいまだこの呪術的要素が色濃く残っている。

あるチベット薬では、それを服用する時に、時間帯や作法が決められていたりするのもかなり呪術的である。

例えば、夜半から明け方に薄暗がりの中で薬の包みを開封し(明るい光の下では陰の気が失われる為だとか)、お湯に溶かす時にはマントラを唱えながら薬指でかき回し、飲む直前に再びマントラを唱えるなどというものもあるそうだ(ガンに効くとされる薬だったか)。

また、チベット医学の薬は、僧侶(呪術的パワーを司る者)と医師(医学的知識・技術を司る者)との共同作業で作られると言う。

ある特殊な薬は、僧侶とチベット医により、満月の夜半に屋外と言った「陰」の性質が強い時間と場所で行われるそうだ(日中、太陽は「陽」)。

満月の夜と言う理由も、あながち呪術的なだけとも言えない。

月は地球に対し、潮の満ち引きに関与するなど、非常に大きな力の作用がある。

満月の夜は犯罪が起きやすいなどという事も聞くが、海水に限りなく近い人間の体液が、潮の満ち引きと同様に月の引力で引き上げられ、頭に血が昇ってしまう為ではないかなどと思ってしまう。
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前々から重力と引力は気であると思っている。

目には見えぬが確実に万物に作用するパワー。

実際に、体の各部分を脱力して、自分の体の重みを感じると、そこに素直に重力(重み)が貫通して、力が抜けて体が軽く感じる様な感覚がある。

分かりやすい例では、太極拳などはその様な気持ちの良い状態で動き、全身のあらゆる流れを良くしている様に思われる。

また、目には見えぬが作用しているパワーはたくさんあると思う。
電気みたに形の無いものや極小の世界の現象など、医学的、科学的に認識できても、通常の人の目では確認できないものもたくさんある。


言霊、音霊などと言われるものも、それぞれ万物に作用するパワーがあるとされる。

真言密教(父方、母方両方とも御先祖の菩提寺は真言宗で、自分の琉球古武術の師も真言宗の御住職であり縁を感じる)などでも手で印を結んだり、真言(マントラ)を唱える。

言葉の音、物や文字の形はそれそのもののエネルギーがあると言う。

例えば、丸い形はかわいい印象を受けたり、とがった鋭角な形は厳しい印象を受けたりする。
それだけで、人の心や感情にそれだけの作用をしているのだと思う。

真言密教では「阿字観」言い、アと読む梵字を大きく書いたものを目の前に置いて座り続けると言う行法もある。
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伝統医学、鍼灸や漢方、気功などは総じて「気の医学」と呼ばれる。

「気」と言う見えざるエネルギーを操作して病を治し、体を健康に保つ。

見えざるエネルギーに関しては既にいろいろと並べてみたが、では実際にあるのかないのかと言えば、治療における限り、自分の経験ではあると言わざるを得ない。

例えば、一本の鍼が人の皮膚に接しているだけで、つらい症状を緩和していく様は、一昔前の西洋人からみたら呪術以外の何物でもなかっただろう。

急性の症状や子供などでは、その変化が分かり易い。

腹が痛い、吐き気がする、頭が痛い、下痢が止まらぬ、寒気がする、などなど。

もちろん、即刻医師に診せなければいけない症状の鑑別は必須だが、それ以外のもので鍼灸でよく対応できる症状も多い。

人体ではとてつもない数で起こる、目に見えぬ極小の化学的変化により一つの命を支えられている。

人の体が目に見えぬ化学的変化によるエネルギーにより動いているのであれば、鍼と言う金属を媒体として治療者から相手に対し、何らかのエネルギーが伝わっているのではないかと日々の治療の中で思うのである。

とは言え、相手に触れずに治す、癒すなどの事はまだよく分からないし、存在できると断言はできない。
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ともあれ、こうした見えざるパワーを引き出す条件とは、より具体的な「イメージ」であり、それを「念じる」と言う事が大切である様に思う。

スポーツの世界でもイメージトレーニングやメディテーション、瞑想は欠かせないものとなっているし、意志の力と言うものが、どれだけ肉体に影響するかは既に認知されている事の様に思う。

密教やヨガ、気功などにある東洋的瞑想法、運動法、健康法などには、細かな「イメージ」が伴っている。
段階的に変化し、身体の各部位をどの様に動いていくのか、など本当に具体的だ。

中国武術などは、その動作に様々なイメージを詩的に表現してそのまま技の名前にしたり、日本の古武術などでも、山川草木の様子や和歌などで詠い、風情ある、人の感情や心に響きやすい表現で、その技の原理や技の感覚を伝えようとしている。

この様に東洋の伝統的身体文化は、人の感情に訴えると言う事を強く意識して修得法を制定していった様に思えてくる。

特に鍼灸にも関係の深い、仙道(仙術。気を操り仙人の様な不老不死、または超能力を得る)では、体にあるエネルギーの濃い部分である三つの丹田に、それぞれ悪い虫(三虫、三尸)がいるとして、仙人になるにはこの三虫を駆除することから始めるらしい。

例として下丹田、下腹、特に腎臓の作用が働く場所の虫は、頭が牛でその下に人の足が一本ついた妖怪の様な姿だそうだ。

その様に駆逐すべき対象と、それがいる部位を具体的にイメージする事で、肉体に変化を起こすのを非常に容易にすると思われる。

「自分の腎臓、下丹田に牛頭で一本足の悪い虫がいる。こいつをやっつける!」

実際にそんなものがいるかどうかよりも、明確なイメージの効力を見るべきだろう。

以前教えていただいた鍼灸の師の中のお一方は治療の際に、

「指先に仏さんのイメージをしている。」

と言われていた。

自分もこれを真似てみようと思ったが、どうもしっくりこない。
後々、自分なりのイメージができあがり、治療に変化をもたらす事ができた経験がある。

その様に自分にしっくりくるイメージとは、個々で異なるものなので、あまり師の真似が過ぎたり、古伝の教えを無闇に有り難がったりしていると、自分の能力や個性が開花しないことも起こり得る。

治療も武道も、やればやる程にイメージを大事にしたいと感じる。
細かい感覚の分析も必要だが、それでは最終的にまとまらないのである。

全体をまとめてくれるのは、具体的で全体的なイメージである。
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シャーマニズムとは見えざる力を引き出し、活用しようとする術。

であれば、現代科学でもシャーマニズムに似たようなところもあり、人の体を癒す伝統医学、精妙な身体操作を可能にする伝統武術などでは、当たり前の様に存在するものだと思う。

そう知りつつもついつい見えるものばかりをおい勝ちになり、それでスランプに陥る。
しばらくしてその原点に気付き、また再び基本に戻る。

仕事や勉強の成果や体を健康に保つ事も、全て思いや念によるその結果であると思う。
目的を達成するには、必ずより具体的なイメージをしていこうと心掛ける。

人はその想いが強ければ、それ相応の力と勢いが現れるものだ。

そのイメージは小学生がウルトラマンや仮面ライダーになりきった様な、あり得ないものでもいいと思う。
それが結果を出す事に役立てればそれでいいのだ。

戦国武将が毘沙門天の化身やら、摩利支天の化身やらと信じきっていたのも、超人的な意志力を引き出す事を確実たらしめたものだと思われる。

年令を重ねるごとにそういった目に見えない事の大切さを見る様になってきている。

なにかの成果をもたらすのは行動力であり、それを支えるのが意志の力であると思う。
そして、その意志の力をもたらすのは具体的なイメージである様に思う。

変化するもの、しないもの

同じ状態を維持するのは無理である。
と言うより、この世に一時たりとも同じものはあり得ない。

あるとすれば原理とか、法則といったものかと思うが、この様な事を言うと宗教的、形而上学的になってしまうが、誰もが認められる物理学的な原理や法則と言えば分かりやすいだろうか。

心身の調子はその日によって様々で、その為に起こる内臓の調子の変化はダイレクトに筋肉や関節に影響を及ぼす。

それにより筋肉の硬軟や長短などに変化が起こり、骨の位置、関節のあり方が変化する。

ある一定の姿勢や、力の配分により、高度な身体操作を行っているのであれば、いつも同じ調子で自分の身体を操作するのは困難である。

なぜなら心身は日々変化するからだ。

基本だけでも毎日稽古すべきなのは、そうした日々変わっている身体の調子を確認している作業なのかもしれない。

そしてその変化する中で、いつも同じ原理を扱える様にしていく作業。

ついでに思いついた事だが、古武術諸流派の様に木刀や棒などの道具を使い稽古する流儀は、自分の身体は変化しても、その形を変える事の無い道具を身体操作の基準として、身体操作の同じ原理を導きやすくできているのかもしれない。
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もし、その様な精密な身体操作を維持する為に、身体のあり方を強引にでも同じ様な状態にする努力をしていたとする。

それは日々変化するものを一部とどめようとする事で、万物の法則に逆らう行為であり、相当のエネルギーを消耗する事だろう。

ただし、例外として生来体の丈夫な者はこの限りでないと思う。
丈夫であるが故に、細かい変化があまり無い。

しかし丈夫な故、感覚が鈍い傾向にある事も多い為、細かい操作を学び取り、使用する事が不得手である事が大きな欠点となり得る。

これまたもちろん例外もあり、丈夫で身体感覚が敏感と言う人もいる。

うらやましい限りではあるが、歴史上、そうした人物は気が荒かったり、我が道をとことん行ってしまうので、周囲と衝突して社会的に生き残りが難しくなってしまう事がある。

武道、武術とは、そうした大きな目でみた戦略なども踏まえて臨むべきものであり、目標は広く大きいものだろう。

最初からそうした優れた人物を目指すのは無理な話だが、いろいろと進んでいく内にそうした道へとつながれば良いと思う。

自分の精神や身体も日々変化し、技も変化するが、その原理や法則に変化はない。

自分の状態を同じ様に保とうとあがくより、その原理を常に確認していく事を大事にしたい。

常に同様の原理をもってよい動きをしたいが為に、日々変わらぬ同じ状態を保つにはどうしたらよいか、と言う事を考えてきたが、変化してしまうものを無理に止める事はせず、外部は変化しても変わらぬ動きができる様な、原理そのものを常に確認できる様な稽古にしていかなければならないと思う。

良いお手本と自分の工夫

抜ける様な青空を部屋でごろ寝で読書などしながら眺めていると、「天高く・・・」とはよく言ったものだと思う。

厳しかった夏と違い、落ち着いた爽やかな空気。

出かけるのもいいが、部屋で本でも読みながらゆっくりと時間を過ごすのは何よりの贅沢だ。

時間の過ぎていくのをまったく気にせずに過ごせるのは、普段はあまりない事なので殊更時間と言う概念が無くなる。

日が傾いてきたら、一週間分の漢方でも作り(薬味の性質を肌で感じたい為、あえて調合してもらわずに、生薬を別個に購入している)、薬膳のスープでも作りおきしておこうか、などと優雅なものである。

それでもそんな余暇の過ごし方が、自分の仕事に直結するであろうものなので、まあよしとしている。

他に、武道的な運動をしたり、医学書以外の本を読むのも、感性を養う為には必要なことだろう。

遊びらしい遊びもする余裕もなく、道場へ行けるのも本当にたまにしか行けなくなった昨今、あまり無理をするのもやめようと思っている。

できる時に、できる事をすればいい。

また、その合間を縫って、治療やら武道やらの独自の工夫をして、実践にて確かめていくのも面白くやりがいがあるものだ。
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読んでいた時代小説に柳生十兵衛のことが次のように書かれていた。

おおよそ、
「十兵衛は酒に酔って寝てしまうとしばらく起きないので、常に伴をしていた弟子らはその間に雑用を済ますのが常であった。」

と言うような内容で、要するに自由奔放な気質だったと言う人物像を表現したのだろうが、この一節を読んで思わず一人笑ってしまった。

と言うのも、この十兵衛像にそっくりな兄弟子がいるからだ。

武道空手で長年指導を仰いだ道場で、いつもその兄弟子の後を追い、終電など気にせず稽古していた。

実力も当時から自分など足元に及ばぬほどで、他の道場生からも慕われていた。

稽古の量も、その技の冴えも、はたまたその行動までもが常人離れしたとこがあったが、その言動は武道や格闘技をやっている様には思えず、外見も特に強そうな印象も無く、技術探求への意志の強さ意外では、常に穏やかな性格だ。

全てにおいて否定的な話をしない人である。
他人を悪く言う様な事もなく、常に前向きな姿勢である。

自分が以前の道場をやめる数年前からしばらく会えずにいたが、今は海外で仕事を持ち、他流派、他団体の空手指導にも呼ばれている様だ。

たまに海外から電話がきたりするが、お互いに国際電話だと言うのも気にせず長話になってしまう。

まだまだ研鑽し続けていたのだなと安心する。
いつまでも目標としてあり続けてもらいたい。
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自分も武道や伝統医学(鍼灸、漢方など)を工夫して、少しでもその原理を活かしたいと思っているが、本当に波のあるものだなぁと感じる。

その波とはもちろん、調子の良い時と不調の時である。

体調が悪い、技術の調子が悪い、精神的に落ち込む、など心身の様々な部分で”不調”がやってくる。

そんな中でも不惑を超えたこの歳にもなると、無理してもダメな時はダメだな、と「待つ」ことを覚える。

しかし、その待つ時の長さが長すぎると感じ、いらだってくる事もある。

最近、分かってきたのはそうした苛立ちを覚える時は必ず、焦って「落ち着き」を失っている時だと言う事だ。

いろいろな理由で思った様な稽古、練習、工夫などができないでいる時に、だんだんと落ち着きを失っていく。

本当はどんな時でも、できる事はあるはずだろうに。
おそらくまだ若い時の肉体の幻想から逃れられずにいるのだと思う。

歳を取り、まして他にやらなければならない事が多い中で、時間的にも体力的にも若い頃と同じ様なやり方が通じるわけが無い。

この事は前から注意してきたつもりだが、今年は厄年というのもあってか、肉体的に通常の稽古すら行うのにも気を使わなければいけない状態が続いた。

いろいろな面で、無理がたたったのだろう。
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今年は長引く体調不良と向き合い、また少し理解できた事がある。

迷いや焦りの元はなんなのか、それを克服するにはどうすればよいか。

今までに教示頂いた師から学んだもので、いまだ自分の原理原則となっているものを自分の中で整理してみた。

伝統武道空手はもちろん、剣術、居合、柔術、そして中国武術などの師たち。

長年お世話になった師、ほんの数年しか教えを受けなかった師、また一日だけでもいまだに強く心に残る師。

どの師も、本物の技を持った師である事は自分の体で確認できた。

どの様な当り具合、どの様な雰囲気、どの様な印象を受けたかは、全ての師を鮮明に体と感覚が記憶している。

そしてその師たちが語った言葉も強く印象に残っている。
一つの道に費やした、その濃密さが一言一言にこもっている。

その技術の効力、外から見た目の動きなどを実際に自分の目で見、体で感じているのだから、その様な現象を再現できる様に追いかける事ができる。

練習法も何通りも教えて頂いているのだ。
あとは自分の感性がどれだけのものかにかかっている。

とは言え、背伸びをすると言う事でもない。

まるまる師や兄弟子の真似をして、いつまでも真の技術が身に付かないと言う事もある。

師の教えを守るのは確かに重要だが、研鑽するのも工夫するのも”自分”だと言う事も忘れてはならない。

自分に合ったやり方を弁えるのも絶対に必要だろう。

そうでないと

「無理がとおれば道理がひっこむ」

のことわざどおりに、どこかにその無理が悪い結果となって現れる。

禅などでは、上の者が下の者を教え導くのに、師や兄弟子の方から下の者に”質問”を発すると言うことがあるそうだ。

普通は教えてもらう者が、教える者に対し質問するものと思われるが、まったくの逆である。

しかし、それは非常に効率の良い指導法であると思う。
その者のレベルを見極め、その者に合ったもっとも良い課題を投げかけ、自分で行わせる。

予備校などのレベルに合ったドリルをさせる様な教育法を思わせる。

ともあれ重要な事は、自分が見た見本、それ以上になる事はできないと言う事だ。

つまり自分が見たり感じたりした見本が低レベルのものであれば、自分がそれ以上になれる可能性は少ない。

精巧な技術であれば、なおさらその事が重要になる。

良いものを見たいものである。
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