武道空手研究会 ~武術・ダンス・東洋医学~

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動画 3つの股関節ストレッチ

昨日の日曜、上野の治療院にて、Y・Gさんにお手伝いしてもらい、股関節のストレッチの動画を撮影しました。

これは私が今までにバレエダンサーやストリートダンサー(主にブレイキン)、テコンドーの選手やボクサー、その他ゴルフ、ママさんバレー、マラソン、社交ダンスなどなど、スポーツ愛好家の方々に紹介して、非常によかったと思われるものを紹介したものです。

これら三つのストレッチは、どれも目新しいものでもなく、似た様な形のものを見た事があると思いますが、細かな点で微妙に効き方が大いにかわってきます。

その様な細かな点をできるだけ分かりやすく説明したつもりですが、肝心の動画アップの段階でエラーが続き、現在対応策を動画編集ソフトの会社に問い合わせているところです。

実際にアップするには、もう少しお待ち下さい。

今回、武道の技術的な動画も撮ってみたかったのですが、あまりいいアイデアもないので、付け焼刃的な撮影ではいかんと思い、自分の動きをチェックする個人レベルの動画を少し撮影したのみに止まりました。



撮影が済んだ後、Y・Gさんと武道の身体操作や鍼灸の事についてお話しました。

武道の実技をしたり、鍼を打つ時の体の使い方や意識など、話は撮りとめも無く続いていきました。

Y・Gさんからいろいろと質問を頂き、それに自分が答えていく事で、どんどん自分の中のものが明確になっていき、かえって自分の方が学び、得ているものが大きいなとつくづく感じました。

その様子もビデオで撮り、確認してみたところ、また直すべき点がいくつも見つかりました。

また更に上達できる気がいたします。


そんな話と実技の合間、Y・Gさんからこんな質問を頂きました。

「自分が知らない未知の技術を持っている相手と相対した時は、どうやって対処すればいいんですかね。」

これに対し私は、

「自分の持っている技術の原理から推し量るしかないですね。」

とお答えしました。

つまり、自分が武道的な身体の操作をしている時に使用している体の原理や法則みたいなものがあり、これを”基準”にして相手がどの様な状態なのか把握します。

例えば「正中線」と言う体軸を重要視して、それを自分の動きの基準にしているならば、相手の正中線がどの様な状態かを見る事で、その技術の高低や、今からどの様に動こうとしているのか、あの状態からはどういった動きが可能で、どういった動きはできないと思われるか、などを判断します。

私の場合は主に「正中線」や、自然落下の加速度を利用する為の「膝の抜き」や「足裏の脱力」、まっすぐ前進して最小限の動きで相手の攻撃をさばく為の「体幹部の左右軸」などがあります。

それらが相手はどの様な状態になっているかを見るのですが、結局は自分が理解して実行可能な範囲でしか、相手の状態も読み取れないと言う事です。

自分の分かる範囲でしか分からない。

自分の持っている技量以上の読みはできない、と言う事であれば、相手の事を必要以上に怖がる事もないと思います。

やるかやられるかはフタを開けてみなければ分からない。

あとは自分の理解できる”基準”の範囲の中で、いけるか、いけないかを判断して実行するのみです。

しかし、そうは言っても、まったく何も読み取れないのも怖いものです。

何も読み取れなければ、相手の技量の高さも読み取れていないので、無謀な攻撃を仕掛けてしまうかもしれません。

そう考えるとキリがありませんが、まずは自分の技術の原理を深めて、より深く読める様にしていく事しかなさそうであります。


さて、動画の方は普通にアップするだけでも結構時間のかかるもので、何度もやり直している内に、だいぶへたれてしまいました。

アップまでもうしばらくお待ち下さいませ(ほんとにストレッチだけなんですがね)。
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若さと言うパワー

若いダンサーたちと交流させてもらい、改めて感じた事。

まだ40を過ぎたばかりだが、歳をとってきて感じるのは、

「若さ」

と言うものはまだまだ必要だって事。

自分が思う「若さ」とは、ある時は「無茶をやれるパワー」であったり、

「理想しか見えず突っ走るパワー」であったり、

「自分を過大評価する勢い」であったり、

とにかく、自分に行動を起こさせてくれる!パワーだと思うのである。





歳をとっていけば毎日が、”地味な苦労”が続き、決して止む事はない。

そうなると自分の場合、挑戦する事、守る事、全てが地味な感じになってきたと感じる。

「派手な事」

自分も以前は歩行者天国で踊った事などもあり、派手な事は決して嫌いではない。

仕事も遊びも派手な楽しさもあっても良いと思う。

しかし、それなりに歳を重ねていくと、生活と言うものの実体が見えてくる。

子供は成長し、両親は老いていく。

自分の家庭、仕事場、患者さんたちの事も守っていかなければならない。

そうすると自ずと地道な活動が主となり、自分が使える時間と言うものに制限がでてくる。

いい歳をして、そんな当たり前の事を考えているが、自分も以前プロスポーツの選手として活動した経験を思うと、いろんな意味での「若さ」と言うパワーは歳をとってこそ忘れてはいけないと思うのだ。




地道な日々の中でも、そうした「勢い」を忘れる事があってはならないと思う。

人生には突発的なトラブルや災難も起こり得る。

そうした事を切り抜けるには、「勢い」がなければならない。
なにかあった時、ここ一番で踏ん張れる力だ。


なぜかは分からないが、そうした若い力や元気さが、人に与えるものの意味を体で感じる様な気がする。
年寄りが小さな子供が好きな事なども、そうした自然な流れがあるのだろうとうなずける。

「若さ」や「勢い」を維持するには、限られた時間の中でも、自分から動いていく努力をしなければならないと痛感する。

稽古をやる意味

当ブログをお読みになられたNANASHIさんより、

「練習も技術の改良とは別に日々己自身への信頼のためにやっていることもある・・・」

と言ったコメントを頂戴し、考えるところがありました。


勝ち負けも忘れて武術に取組む。その方が幸せだ。

と今は思っています。

戦国時代でもないし、警護の職についている訳でもない。
勝負を競うのは、若い頃に多少はやったし、少ないとは言えプロの場にも立てた。

武術のトレーニングは、日常生活の全てを忘れて、自分の感覚を高める、自分の身体のレベルをあげていくところに楽しみがある様に思います。

そして、その結果として武術の技量が上がっている。
そんな稽古に没頭したいものです。

もちろん実践して検証し、できていなければできるまでやります。

その検証の仕方とは、対人で通用するかと共に、稽古によって体が壊れないか、健康を損ねていないかと言う点であります。

技術の練習に耐え得るか。
また、日常生活に耐え得るか。

これも年のせいか、一時のつらい練習よりも、ずっと持続性のある仕事の方が大変だと思う様になってきました。

ともかく、実際の生活の中でやる意味のある稽古とは、やって楽しく、またやりたくなる稽古、心身ともに実益のあるものでなければ意味は無いと思います。

真面目って何だ?

真面目って言うのも、なまけもの、外に出たくない逃げ腰、とも言えるかもしれない。

あくまで自分の事だけとして考えた場合だけど。
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久しぶりにある武術雑誌を眺めていた。

すると、そこには様々な身体論や、様々な技術を紹介している先生方の姿があった。

かつてプロとして格闘技に打ち込んでいた時の先輩の顔があったり、長年師事したかつての師の姿も見られた。

わっ!すげえな。みんなやってるな。うんうん、この理論はすごいな。

などとのめり込んでいる自分があった。

以前だったら、それでさらにその気分が盛り上がっていたんだと思う。

だがその高揚感がすっと一気に引くのを感じた。

いくら優れた理論でもすぐに自分に導入できる訳ではない。

活発に活動している人たちを見て、それに負けるなどと思っても、焦りになるだけで自分が空回りするだけ。

そんなよくない状態に戻るのを感じて、自分の感性が危機管理をして、そっちに行きそうになっていた気持ちを引き戻してくれたんだと思う。

何事も自分でやらなければならないのだ。

他人がすげえだなんて感心ばかりしていられない。
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昔は”真面目”だった。

高度な技術は難しい。

だから集中して、師の教えに素直にやらなければならない。
上達したいのは分かるが、あまりに他の考えを受け付けなくなっていた。

極端な性格だから。

結果、長年伸び悩み、自己満足すらできなくなっていた。

そして、頭でっかち、独りよがりになるのをやめようと、自分の心がこうしたい!って思った事は素直に受け入れて実行してきた。

師匠に習う時は素直に。

自分の稽古は自分の感性にまかせて。
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素直と言うのも、一歩間違えれればただの”依存心”。

これさえやっていれば上手くなるんだって言う、自分だけの工夫や試行錯誤から逃げている。

試行錯誤って楽しいけど時にはつらい。
他人を相手に確認しないと、技の可否は検証できないから、悔しい思いや恥ずかしい思いもしなくてはならない。

武道に限らず、自分の答えは自分で見つけないと。
それには必ず痛みや何らかのリスクがあるのを覚悟しないと。

難しい技術だからと”真面目”にやっていたあの頃も、それはそれでいい経験。
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昔の剣豪が読んだ歌でなるほどと思わされた。

「なかなかに 人里ちかくなりにけり あまりに山の奥をたづねて」

山奥に行こうと思ってずんずん行ったら、かえって山から出ちゃって人里近くまできちゃったよ。

行き過ぎれば何事も逆効果。

宮本武蔵は兵法に入り口も出口もなく、簡単な技や極意なんてものも無いと言っていた。

今の自分に分かった様な、分からない様な。
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本物の真面目じゃなかった。

本当の素直じゃなかった。

行動も考えも自分の枠を超えて努力する。
 
そうでないと、また”独りよがり”になってしまうんだろう。

ある程度、歳を取ってくると、自分の器が分かってくる様な気がする。
で、自分の限界が分かった様な気になってくる。

まだ何もできてないのに、それじゃだめだろう。

人はどうあれ、自分はまだまだできてないんだから、まだまだ生意気なくらいでいいんじゃないか。

上を向いていく事を忘れたり、自分で勝手に線を引いたりするなんて、自分で自分をつぶしてしまう様なもんだろう。

他人のサクセスストーリーほど勘違いしやすいものはない。
特に自分みたいな阿呆は。

勝つのも負けるのも自分の責任でね。

自分のペースでね。

勝負していこう。いろいろとね。

無意識に入ってくるエネルギー


普段、無意識に目に、耳に、五感を通じて入ってくるもの。

はたまた第六感からも入ってきているかもしれない。

朝の気持ちのいい空気。

鳥の鳴き声。

子供たちの声。

部屋の壁紙やカーテンの色や柄。

何気なく流している音楽。

仕事仲間の雰囲気。

家族や友人の存在。

当たり前だが、酸素や重力などの自然の力や法則。


その様に、自分をリラックスさせ、心身を養ってくれる作用をしているもの。

いつもあるのだが、意識しないと分からないもの。

知らずの内に良い作用を与えてくれているのだが、認識しよう、理解しようとすると、あらためてエネルギーがわいてくる気がする。

すでに与えてもらっているエネルギーの量に、さらにさらに上乗せされて自分に作用する気がするのである。

すでにある恩恵に気付く様に目を向ける事。
忙しい日々でも、たまには思い出してみたい。

そういった事に、たまにだが気付ける時がある。

そういった時に、本当にありがたいなと思える。

努力は紙の積み重ね

先日の日曜日に行われた空手道脩己会、第一回全国大会の閉会式にて林正秀館長がお話しされた事。

努力の仕方を、紙の積み重ねに例えてお話しして下さった。


ペラペラな紙は、いくら枚数が多くても、バラバラに置いてあれば、それはいつまでたっても一枚の紙でしかない。

いくら大事な事が書いてあっても、風に飛ばされたりする。


正しく重ねていけば、厚さを増して風にも飛ばされない様になり、一札の本として知識の集大成にもなる。

いろいろな事をやり過ぎて意識が分散しては、いくらなにかをやっても蓄積にはならない。

振り返ってみても確かなものは残らない。

正しい努力を続けたい。

何かに努力をするには、それの為の時間が要る。


やりたい事、やらなければならない事、いろいろあるが、それらを上手く工夫して時間を作り出す努力が必要だ。

それも、できるだけ毎日。


ある高名な柔道家の話し。

もともと運動神経が悪かったとの事で、人の2、3倍は努力しなければならないと自覚された。

しかし、現実的には、特別な環境下でもない限り、人の2、3倍なんて量は練習できない。

そこで、人よりも必ず20分だけ多く道場にいる事を目標にされた。

そして、成果を出した。


一日だけで見たら、大した差ではない。

しかし、人と違った事、自分にできる事、それをずっと続けると言う事を実践された。

それは必ずその人の中の何かを増していく。


小さい努力の積み重ねの大切さ。

また努力しても、正しく積み重ねなくては何にもならないと言う事をあらためて考えてみた。

第一回脩己会 全国選抜大会




今日は一日、空手道脩己会の記念すべき、第1回全国大会に医療班として帯同させて頂きました。

今年は10周年記念と言う事もあり、私にとっても記念すべき大会になりました。

先日の日記でも書きましたが、脩己会の林正秀会長を私が治療させて頂いている御縁で、会長直々に御依頼を頂きました。

大会参加選手は特に小学生の部が多く、これだけの子供たちがこれほどの熱意を持って取り組んでいれば、会としての将来も明るいでしょう。

多くの子供たちが、これほど一生懸命である事に新鮮な驚きを感じました。
口では言い現せない刺激を受けました。

さて、大会の内容の方ですが、小学生の1年から6年の各学年ごと、中学、それから一般と分かれた部門で争われます。

ルールは顔面フルフェイスの防具と胴をつけ、拳サポーター、すねから足甲までのサポーターをつけて打ち合います。

手による攻撃は顔面へは禁止で、蹴りは顔面、胴、下段(相手の足)への攻撃がOKで、各部位へのクリーンヒットがあった場合、技あり・有効などのポイントとなります。

フルコンタクトとポイント制が合わさった感じのルールで、がむしゃらに打ち合うだけの膠着状態になりにくく、スピーディーな展開です。


午前中はほとんど怪我もなく、私たちの出番はなかったのですが、トーナメントが進むにつれて、いろんな怪我に遭遇しました。

手足の打撲、手指の骨折(の疑い強い)、その他腹や金的を打たれた際の痛み、中にはフルフェイスの顔面防具をつけたいたにも関わらず、口の中を切ったり(軽度)、歯が折れたり(乳歯でした)などがありました。

蹴りや突きを食らった衝撃で、顔面防具がずれて、顔に当ったのでしょう。

防具があるからと言って、油断してはいけないなと感じました。
あらゆる怪我を想定しておかなければなりません。

そういう役割からも、一試合一試合、気を入れて見ていると、結構疲れるものです。

しかし、ずっと見ていると、
「ああ、人間の体はこう動くものなんだな。」
などと、自分自身の武道の動きを改めて考える、とても良い機会になりました。

帰りは同行してくれた若手スタッフと近所の喫茶店で反省会。

こんな外傷もあるんだな、こんな道具も用意しておいた方がいいな、などいろいろと試合の医療班としても、普段の治療にしても、改めて考えるべき点を話し合いました。

林会長からも今後の大会についても帯同を依頼され、その機会がくる時には今よりもっと的確な判断と処置ができる様にしなければならないと思った次第です。

居合術

今朝は娘の小学校へ音楽会の観覧へ。

体育館では、保護者用の座席を対面する様に全校児童が整列。
運動会同様、ビデオ撮影用に上演している学年優先の席が設けられているのも現代らしいと思います。

毎回こんな考えをしてしまうのも、自分が一昔前の人間と言う事ですね。

演目は学年順に進み、娘の3年生の番は早々に回ってきて、ビデオ撮影も無事済ませ、ここで御役御免で御座います。

自宅に戻り、治療の仕事の準備にかかります。
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最近、夜遅く帰宅してからも少しだけでも稽古している事があります。

昔からの武友、B-FIELD代表の山下さん(リンクにあるB-FIELDのHPをご覧下さい)とご一緒させて頂いていた道場で指導を受けた居合術の稽古です。

久しぶりの居合、当時の教えと教本などを読み返しながら3階の治療室で黙々と行います。

なぜ最近、居合をやり直しているかと言うのは、武道空手の様なダイナミックな動き(浮身による移動、全身の鞭身など)が多いと、コンパクトに全身の動きが一調子で終わる様な剣術や居合術の動きで矯正してみたく感覚が出てきたからです。

鞘に納まった日本刀と言うものを抜く、相手から読まれにくい動きで抜くと言う難しいものです。

全身を使い切りながらも、モーションが小さく見える動き。

実際に最短距離を通るものであり、日本刀の形状(自分の場合その物の重心を意識します)を最大限に活かし、早く動かすものです。

見た目の早さも当然ですが、抜きたい!と思う時に即抜ける事が肝要です。

単純に、物がA地点からB地点へ動くと言う様な速さではなく、相手に反撃を許さない速さと言うのは、また違ってきます。

簡単に言えば武術の場合、相手が人である以上、相手の攻めに対し「間に合えば良い」と言う早さなので、見た目の速さだけでは測れない要素があるのです。

「止まっているのが一番速い。」

と言う例えを聞かされた事があります。

下手に動いて隙を作るよりも、正確に構えて動かない方が相手が攻め入る隙がなく、下手に動いた相手の隙に付け入る事もできる、と言うほどの意味でしょうか。
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「武道的速さ」

とは、相手も動く人間であると言う条件である為、自分が動く動線に厳しくなければならず(相手の攻撃線を確実にはずした上で攻めなければならない)、また動かし方も人体の構造的にも、精神的、心理的にも理にかなったものでないといけない訳です。

ともあれ、武道空手とは少し違った感覚のある居合を稽古する事で、武道空手の技がやり易くなる事もあるのです。

それは、別の流儀から、別の物を発見して取り入れた、と言うものではなく、本来そこにあったものを違った角度から見て”再確認”できた、と言う感覚であります。

自分の頭が柔軟性を失い、一方向だけからしかものを見る事ができなくなり、見失い忘れてしまっていたものが思い出せる手段であると思います。


やたらといろんなやり方をするのは、自分の流儀にまとまりが無くなってしまうものありますが、あくまで自分の本道を見直す為に行うと言う目的を忘れなければ、ぶつかった壁を破る手助けになると思うのです。

縁あって出会えた様々な流儀。

日本伝統の居合術と剣術、鍼灸の師から指導を受けた太極拳や意拳などの中国武術、空手特有の武器術である琉球古武術、そして自分の技術の核である武道空手。

これだけあると節操がない様にも思え、どれも中途半端になりそうで自分が嫌になった事もあったが、それでも好きだと言うだけで、ダメなやり方かもしれないと思いつつも続けてきてしまいましたが、今はそれでも続けていて良かったと思えます。

それなりの成果が見えつつあります。
それがどの程度のものなのかを確かめる作業も、いろんな方々との交流を通じてしていきたいと思っています。

けっして独りよがりで終わらない様にはしたいと思います。

明日は、私が治療させて頂いている空手道「修己会」の林正秀会長から直々に依頼を頂き、大会へ救護班として帯同をして参ります。

林会長からは、治療しながらいつも武道、空手についてのお話もうかがっております。
組織の運営や空手の鍛練具の事までと幅広く、自分の技術開発の為に閃きを受ける事もしばしばです。

武道の先人であり、この様に恩を受けている林会長の為にも、しっかりと役目を果たしてきたいと思います。

弱点は本当に弱点なのか

自分の中に、心身ともにいろんな弱点がある。

若い内は肉体的にも今より無茶ができた。
精神的な弱点は、若さゆえか自分で認めていなかった。

今はそれなりに人生を経験させてもらった事で、それらを感じる事ができる。

40を過ぎて1年と少し。

いろんな意味で弱さを感じる。
それらの弱さをなんとかしたいと思い、いろいろと工夫をしている。

しかし、弱点や短所と言うのも、また別の角度から見れば良い面もあり、安易に悪者あつかいしてしまうのは、心身のバランスを崩してしまう様に思える。

その弱さがあったからこそ、”守られていた”部分もあったのではないだろうか。

弱点を排除すると言う考え方ではなく、まずはそれを正確に認識し、

「ああ、そういう弱点が俺にはあるんだなあ。」

と言うほどの態度でのぞみたい。

その弱点のお陰でここまでこれた事、逆に言えばそういう弱点ができる様な生活をしていたからこそ、それらの弱点が存在したと言う事、まあ、どちらにしても言えるのは

「必然的」

と言う事だろう。

必然的なものを強引に排除しようとするのではなく、そいつらは置いといて、別の角度から違った工夫や努力ができないものか、と言う風に考えたい。
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多少の”悪いこと”があった方が、全体として大きな災厄が無い様に思う。

人間の体も、雑菌がある程度あった方が、それより強い毒性の菌やウイルスから守ってくれて健康的である。

衛生的なのもいいが、ある程度は”自然”を残していないと、人間の体は微生物の共同体でもあるから、かえって不健康になると言うもの。

物の考え方にも言える事だが、何か一つの方向に勢いよく進むと、大切なと言うより絶対に”必要な”なにかが見えなくなり、置いていってしまうのではないだろうか。

完璧と言うのは幻想に過ぎず、健康と言うのも幻想なのかもしれない。

全てにおいて良い状態を求めてしまう自分は凡人である。


武道の先輩、東洋医学の師匠など、身近にいる優れたなにかを持つ人たちのなんと自由なことか。

時に、えっそんなのでいいの!?と言う様な事を言われたりする。

そんな時、アンバランスな思考の自分はとても救われる思いがする。

多少の不調和やよくない事があっても、

「いつものことさ。」

と言える様でいたい。


それでいて努力や工夫は惜しまずに、より良くなる事を目指した上で、そういったゆとりやあそびを持っていたい。

仕事の方も少しずつ良くなっているが、それなりにやるべき事も多くなっている中、自分の武道空手の稽古会なども始めたい気持ちもあり、なにかと焦ってしまっていたと思うこの一年。

なにをどうあがいたところで、時間がかかるものはかかるものだ。

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